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アイザック・ニュートン

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アイザック・ニュートン
Isaac Newton
GodfreyKneller-IsaacNewton-1689.jpg
1689年のニュートン(ゴドフリー・ネラー画)
生誕 Isaac Newton
グレゴリオ暦 (1643-01-04) 1643年1月4日
イングランド王国の旗 イングランド王国リンカンシャー州ウールズソープ=バイ=コルスターワース
死没 グレゴリオ暦 (1727-03-31) 1727年3月31日(84歳没)
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国イングランドの旗 イングランドミドルセックス州ケンジントン
居住 イングランド
国籍 イングランドグレートブリテン王国
研究分野 自然哲学数学物理学天文学錬金術神学キリスト教神学経済学
研究機関 ケンブリッジ大学
王立協会王立造幣局
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
指導教員 アイザック・バローBenjamin Pulleynなど
主な指導学生 ロジャー・コーツウィリアム・ホイストンなど
主な業績 ニュートン力学古典力学)の体系化、万有引力の法則の発見、微積分法光学スペクトル分析二項級数二項定理自然哲学の数学的諸原理ニュートン法など
主な受賞歴 王立協会フェローKnight Bachelorなど
署名
プロジェクト:人物伝

サー・アイザック・ニュートン: (Sir) Isaac Newtonユリウス暦1642年12月25日 - 1727年3月20日グレゴリオ暦1643年1月4日 - 1727年3月31日)は、イングランド自然哲学者数学者物理学者天文学者神学者

主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。

国際単位系 (SI)における計量単位であるニュートン: newton記号: N)は、アイザック・ニュートンに因む。

ニュートンの生年とガリレオの死亡年についての誤解

しばしば「ニュートンはガリレオが死んだ年に生まれた。」と間違って言われている。この間違いはガリレオが死んだ日は新しいグレゴリオ暦によっており、ニュートンの誕生日は古いユリウス暦によっているせいで起こっている 。

ガレリオの死亡日とニュートンの誕生日
事項 年月日(ユリウス暦) 年月日(グレゴリオ暦) 行用されていた暦法
ガリレオの死亡日  1641年12月29日 1642年1月8日  グレゴリオ暦(イタリア内)
ニュートンの誕生日  1642年12月25日 1643年1月4日  ユリウス暦(イングランド内)

ガリレオが死んだ日は、イタリアで使われていたグレゴリオ暦で1642年1月8日(ユリウス暦では1641年12月29日)である。したがって、ニュートンはガリレオの死んだほぼ一年後に生まれたと言うことはできる。

生涯

生い立ち

同名のアイザック・ニュートンを父、ハナ・アスキューを母として、ユリウス暦1642年12月25日(クリスマス)にイングランドの東海岸に位置するリンカンシャーの小都市グランサムから南方に10キロほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワースWoolsthorpe-by-Colsterworth)の祖父宅(母方)において生まれたが、その誕生の直前に父親は他界していた。未熟児として生まれたといい、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったという。なお、アイザックという名は、旧約聖書創世記に登場する太祖の一人イサクに由来する。

父親は、身分としてはヨーマン(=独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳のときに近郊の農家の娘(=アイザックの母、ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3か月前に死去した(のちにニュートンの義父となったバーナバス・スミスは、この父アイザックが「粗野な変人であった」と述べたという。ただし父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師医師牧師などを輩出している)。

実母はアイザックが3歳のときに近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。アイザックは物心のつかない年齢で両親の愛を知らない子となった。母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。息子のアイザックは母のこの選択に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝した(この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た)。

グランサムのキングス・スクール (The King's School)

母親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、のちに至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。しかし、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。

グラマースクール時代もニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車日時計水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信を持つようになったとされる。

学校に通うようになって2年がたち14歳になったときに、母の再婚相手のスミスが死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子どもとともにウールスソープの家へと戻ってきた。母は、亡くなった元の夫が遺した農園を営むことを考え、父親のようにアイザックが農業(百姓仕事)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。

ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、前の下宿先のクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人らに相談し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備として聖書算術ラテン語古代史初等幾何などを学んだ。

トリニティ・カレッジ入学

1661年、ニュートンは叔父のウィリアム・アスキューが学んでいたトリニティ・カレッジに入学した。入学当初は「サブサイザー(sub-sizar)」として仮に受け入れられ、1か月後に「サイザー(sizar)」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをする代わりに、授業料や食費を免除されるという身分であった。大多数の学生は「コモナー(commoner)」という自費で学費を払う者たちで、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという。

当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われていた。つまり、主としてアリストテレスの学説に基づいて講義されていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好んだ。

たとえば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学(en:La Géométrie)』ラテン語版第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵(Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術(The Arithmetic of Infinitesimals)』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学(Dioptrice)』、ウォルター・チャールトン原子論哲学の入門書などを読んだのである。

恩師のアイザック・バロー。ニュートンを大切にしてくれ、すぐれた指導をしてくれたうえに、さらに自身のルーカス教授のポストを譲ってくれた、ニュートンの恩人である。

ここでニュートンは、良き師であるアイザック・バローにめぐり会った。ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた。

バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトニズムを奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。バローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」(=奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、翌年には学位を授与されることになる。バローとの出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年万有引力二項級数対数無限級数の発見を経て、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。

1665年にカレッジを卒業し、バチェラーBachelor of Arts; 学士)の学位を得た。

ペスト流行と三大業績

また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである。

ニュートンが学位を取得したころ、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生のときのそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになった。

1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た。

また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った。こうしてニュートンは故郷での休暇中に、「流率法( (Method of Fluxions)と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、プリズムでの分光の実験(『光学』)、万有引力の着想などに没頭することができたのである。

「ニュートンの三大業績」とされるものは、いずれもペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻っていた18か月間の休暇中になしとげたことであり、すべて25歳ごろまでになされたものである。結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているため、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。

この間に、リンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの有名な逸話がある(#リンゴについての逸話)。

1667年にペストがおさまったあと、ニュートンはケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえにほかの1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため、ニュートンはフェローになることができ、研究費を支給されるようになった。

その年に『無限級数の解析(De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。これでニュートンは微分積分法について述べているが、ライプニッツもまた独自に、異なった視点から微分積分法を発見しており、のちに微分積分法の優先権をめぐって二人の間で熾烈な争いが展開された。

ニュートンの発表はライプニッツより遅かったが、ニュートンはライプニッツより早く発見していたと主張し、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行った。

ニュートン式望遠鏡を考案し1668年には第一号機を完成した。改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、ニュートンが会員に推薦される理由となった。

ルーカス教授職と著書刊行

1669年、ニュートンはケンブリッジ大学ルーカス教授職に就いた。これは師のバローがニュートンの才能を認めて自分のポストを弟子に譲ろうと打診したものであり、ニュートンは一度断ったが、結局その申し出を受け入れることにした。

ルーカス教授としての役割は、幾何学、算術、天文学、光学、地理学のいずれかの講義を毎学期わずか10回ほど持つことと、週に2回学生との会合に出るだけでよいというものであった。ニュートンは自分が開拓した「光学」について講義したが、内容が斬新すぎて理解しがたかったらしく、学生がひとりも講義に現れず出席者がないということもしばしばだった。

トリニティカレッジ内のチャペルにあるニュートン像

ルーカス教授時代に、ニュートンは彼の二大著書となる『光学』の執筆(刊行は1704年)および『自然哲学の数学的諸原理』の執筆・刊行(1687年刊)した。また、ニュートンは聖書研究や錬金術の実験などにも没頭した。また哲学者でもあったので、「神学」にも自然学に対する情熱と同じくらいの情熱、あるいはそれ以上の情熱を注いだ。

ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』を18か月で書き上げ、この期間は食事も忘れるほどの極度の集中だったという。

ニュートンの死後残された蔵書1,624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16パーセントであるのに対して、神学・哲学関連は518冊で32パーセントである。

ニュートンが哲学者として聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実については、のちの時代に登場することになる科学者たちが、自分たちの気に入る英雄像を作るために事実をゆがめて書いたり、自分たちに都合の悪い事実を無視するかたちで科学史を書くということが繰り返されたりしたため、やがて忘れられてしまうことになった。

20世紀になり、ケインズなどが歴史的資料の収集・再検証を行い、ようやくそうした科学史の嘘、科学者らによる嘘が明らかになった。

下院議員のニュートン

自然哲学の数学的諸原理』を刊行(1687年)してまもなくのこと、王位に就いたジェームズ2世がケンブリッジ大学に対して干渉してくるという出来事があったが、その際に行われた1686年の法廷審理に、ニュートンはケンブリッジ大学側の全権代表グループの一員として参加し、毅然と干渉をはねのける発言をした。

2年後の1688年には、ニュートンは庶民院議員(下院議員)に大学より選出された。しかし議会で議員としての唯一の発言は「議長、窓を閉めてください」だったという。

ニュートンは大著の執筆のあとで疲れており(『自然哲学の数学的諸原理』の執筆から刊行にいたるまでに、ロバート・フックと先取権をめぐり確執も生じ、初代グリニッジ天文台長のジョン・フラムスティードとも感情的ないざこざがあった)、大学での学究的生活にうんざりしていたとされ、上記のような政治的なことへの関わりが、大学から離れた実務的な世界で地位を得たいという欲望に火をつけた。

そこで、教え子で19歳年下ながら社交性に富み、立ち回りがうまく、すでに中央政界で人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを世話してくれるように依頼した。さらに、有名な哲学者ジョン・ロックとも知遇も得ていたため彼にもポストの紹介を依頼したが、すぐに色良い返事がもらえたわけではなかった。

精神的に疲れていたうえに、あてが外れた形になったニュートンはやがて精神状態に変調をきたすようになった。回復するのに時間を要し、不眠や食欲減退も引き起こし、被害妄想にも悩まされた。福島章統合失調症説を展開している。

ジョン・ロックへの書簡の中には、「(教え子の)チャールズ・モンタギューは私を欺くようになった」といった内容を書いたものが残っている。2年ほど自宅に引きこもるような状態になったとも言われる。これを“錯乱”と表現する人もいるが、うつ病程度ではなかったかという指摘、最愛の母が死去するに至ったことの影響もあったとの指摘もある(母は1697年6月に死去した)。好んで行っていたものの一つで、錬金術においてしばしば重金属を味見するという行為があったために一時的な精神不調に陥った可能性も示唆されている。

この壮年期におけるスランプにおいてもニュートンの頭脳は明晰かつ学問を楽しんでおり、ヨーロッパ中に難解かつ興味を惹くような数学の問題を新聞に出題していたヨハン・ベルヌーイの「鉛直面上に2つの点があるとする。ひとつの物体が上の点から下の点まで重力のみで落下する時に要する時間をもっとも短くするには、どのような道筋に沿って降下させればよいか?」という最速降下曲線と呼ばれる問題を1696年に出題、翌年1月夕方ニュートンの下に掲載誌が到着、出題に目を通したニュートンは今日変分法と呼ばれる新しい数学の分野を一夜で組み立て、翌朝の出勤前までに解答し終え、匿名でベルヌーイに投稿した。

王立造幣局長官のニュートン

1702年の肖像画

そんな時期が続いてはいたが、やがて教え子のモンタギューが世渡りのうまさを発揮して財務大臣になり、1696年4月にはニュートンに「王立造幣局監事」のポストを紹介し、ニュートンはその職に就任した。1699年には、ニュートンは「王立造幣局長官」に昇格した。

モンタギューとしてはいつも働きづめであった恩師のニュートンに少しばかり研究から離れて時間的、体力的に余裕のある地位と職に就かせたつもりだったが、ニュートンは就任早々に通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。

王立造幣局長官のニュートンは「元大学教授」にしては鮮やかな手並みで、部下の捜査員に変装用の服を与えるなどし、偽金製造シンジケートの親分ウィリアム・シャローナーを捕らえて裁判にかけ、大逆罪を適用して死刑にした。

ニュートンが造幣局長官に在職している間は偽金造りが激減した。

一方、ニュートンは貨幣鋳造のための正確な重量や測定基準を新たに制定した。この時、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において、ニュートンは市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため、銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象を引き起こしてしまった。これは図らずもイギリスが事実上の「金本位制」に移行する原因となった。

ニュートンはイギリス政府の増大する公的債務の問題にも携わっていたが、この在職の時に、まだ小さな企業だった「南海会社」を知った。

ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった。

個人投資家のニュートン

ニュートンは株式投資も実践していた。ニュートンは長年にわたり手堅い投資を心がけ、その運用成績も好調だった。株式や国債などに分散された投資ポートフォリオは、1720年の年初時点でおよそ3万2000ポンド(現在の価値で約6億5000万円)に相当した。

この頃、イギリスでは株式市場が発達し、多くの人たちの間で株式ブームが巻き起こっっていた。この時、特に人気のあった企業は「南海会社」であり、イギリス政府の売り出した額面100ポンドの「南海会社」の株式は人々の間で爆発的な人気を集めた。

ニュートンがこの南海会社を知ったのは、王立造幣局長官として英国政府の増大する公的債務の整理に当たっていた時であった。当時の南海会社はまだ人々から注目されていない業績不振の貿易会社であったが、この南海会社の事業内容とその将来性に何かを感じて、早くから注目したニュートンは会社設立から1年にも満たない1712年6月に、この南海会社の株式を購入した。

やがて、ニュートンは個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの株式投資を行った。その後、南海会社の株価はニュートンの予想通りに大きく上昇し、8月には株価が1000ポンドを突破した。この株価上昇の間に、ニュートンは南海会社の株式を一旦、売却して利益確定した。しかし、その後も南海会社は人々の人気を集めて株価はさらに上昇し続けたので、ニュートンは「まだまだ、南海会社の株価は上がる!」と思って、株価が上昇中の南海会社の株を買うことにした。しかし、その後、南海会社の株価は人々の思惑、予想に反して、大暴落した。

結局、ニュートンは南海会社の株で7000ポンドの利益を出したが、その後、株価が大暴落して、2万ポンドの大損をしたのである。この当時の2万ポンドは現在の価値に換算すると、約4億円と言われる。

この株式相場で金銭的にも精神的にも深い大きな傷を負ったニュートンは次の言葉を残した。

・・・「私は天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算できない」・・・

この南海会社の株式相場では、多くの資金と投機が飛び交い、異常なマネーゲーム、狂乱相場となったことから、イギリスの株式市場の歴史の中でもっとも悪名高い「南海泡沫事件」(The South Sea Bubble)として、記録されることになり、その後の「バブル経済」の語源になった。

錬金術研究と聖書研究

研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である)。晩年、ニュートンは『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イングランド国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである。

晩年

1705年に、ニュートンはアン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である。

ウェストミンスター寺院内のニュートンの墓

授与から20年ほど後の1727年3月、ニュートンは死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった。

リンゴについての逸話

ニュートンがリンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの逸話は有名である。ニュートン自身が記した記録は存在しないが、周辺の人物が書き残したものとしては次のものがある。

ウィリアム・ステュークリ

ニュートンの友人でありニュートンの初期の伝記作家であるウィリアム・ステュークリが1726年4月15日にニュートンから直接に聞いた話を回顧録として記録している。ステュークリが1752年に書いた MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS life1726年4月15日にニュートンと会話した、とする以下のくだりがある。

Memoirs of Sir Isaac Newton's life - 042 ウィリアム・ステュークリの手稿。2行目after dinner, the weather being warm, we went から 21行目as the earth draws the apple. まで。 8,10,17,20,21行目にapple の語が見られる。
after dinner, the weather being warm, we went into the garden, & drank thea under the shade of some appletrees, only he, & myself. amidst other discourse, he told me, he was just in the same situation, as when formerly, the notion of gravitation came into his mind. "why should that apple always descend perpendicularly to the ground," thought he to him self: occasion'd by the fall of an apple, as he sat in a comtemplative mood: "why should it not go sideways, or upwards? but constantly to the earths center? assuredly, the reason is, that the earth draws it. there must be a drawing power in matter. & the sum of the drawing power in the matter of the earth must be in the earths center, not in any side of the earth. therefore dos this apple fall perpendicularly, or toward the center. if matter thus draws matter; it must be in proportion of its quantity. therefore the apple draws the earth, as well as the earth draws the apple." 

—ウィリアム・ステュークリ(MEMOIRS OF Sr. ISAAC NEWTONS lifeより)

訳文

ディナーの後で、暖かい日だったので、庭に出て数本のリンゴの木の木陰でお茶を飲んだ。ニュートンと私だけだった。色々の話の途中で、彼は、「昔、引力についての考えが浮かんできた時と全く同じ状況だ。」と言った。

彼は「なぜリンゴはいつも地面に向かって垂直に落ちるのか?」と自問した。腰を降ろして考えにふけっていたときに、たまたまリンゴが落ちたときだった。「なぜリンゴは横に行ったり上に上がっていかず、いつも地球の中心へ向かうのか?」理由は疑いもなく、地球がリンゴを引き寄せているからだ。物質には引き寄せる力があるに違いない。地球にある物質の引く力の総量は地球の中心にあるのであって、地球の中心以外の所にはないに違いない。

だからこのリンゴは鉛直に、地球中心に向かって落ちるのだ。物質が物質を引き寄せるのであれば、その量は物質の量に比例するに違いない。それゆえ、地球がリンゴを引き寄せるように、リンゴもまた地球を引き寄せるのであると。

ジョン・コンデュイット

ジョン・コンデュイットは、ニュートンの姪であるキャサリン・バートンの夫であり、夫妻はニュートンが亡くなるまで、ロンドンのニュートン宅で一緒に住んでいた。1727年か1728年に、「Memoir of Newton」の中で「1665年という年、彼は・・・初めて重力の体系のことを考えたが、それに行き当たったのは、一本の木から一個のりんごが落ちるのは見たことによる」と書いている。

About this time he began to have the first hint of his method of fluxions & in the year 1665 when he retired to his own estate on account of the Plague he first thought of his system of gravity which he hit upon by observing an apple fall from a tree —

ヴォルテール

ヴォルテールは1727年3月にニュートンが死んだとき、イギリスを訪問中であった。ヴォルテールの1727年の「Essay on Epic Poetry of 1727」の中に、キャサリン・バートンから聞いた話を記録している。「アイザック・ニュートン卿が自宅の庭を歩いていて、木からりんごが落ちるのを見て重力体系の最初の思考を得たのである。」と。

In the like Manner, Pythagoras ow d the Invention of Musick to the Noise of the Hammer of a Blacksmith. And thus in our Days Sir Isaak 3 Newton walking in his Gardens had the first Thought of his System of Gravitation, upon seeing an Apple falling from a Tree. 4」(3、4は(注)の番号)

ロバート・グリーン

1727年、ロバート・グリーンは、友人のマーティン・フォークス(ニュートンが王立協会会長であったときの副会長)が、万有引力のアイディアは一個のりんごからインスピレーションを得たものだったと語ったことを、ラテン語で活字にして伝えている。

信頼できない記述

時代が下がるにつれて、様々な尾ひれが付くようになり、信頼できない記述となっていった。例えば、オイラー(1760年)とアイザック・ディズレーリ(1791年)は、リンゴがニュートンの頭に当たったと何の根拠もなく書いている。ディズレーリのこの根拠のない記述は、ボルトン・コーニー(en:Bolton Corney)、オーガスタス・ド・モルガンによって批判されている。

天文学者でもあったトーマス・チャーマーズ師は、「リンゴがニュートンの足元に落ちた」と書いた。この形のものも同じように流布したが、細かいことだったので文句は出なかった。

数学者のカール・フリードリヒ・ガウスは、勝手に尾ひれを加えて次のように書いている。「りんごの話は単純すぎる。そのりんごが落ちようが、落ちまいが、そんな発見がそれで遅れたり、早くなったりすると思い込むのは別にかまわないが、真相はこんなところだろう。ある馬鹿で押しの強い男がニュートンを訪ね、偉大な発見にどうやってたどり着いたかを聞いた。そのときニュートンは子供じみた相手と向かい合っていることに気付き、追っ払いたいと思って、りんごが一つ鼻に落ちてきたのだと答えた。相手がそれですっかり教わったと満足して立ち去ってくれそうなことを答えたのだ。」

ニュートンが万有引力の法則を思いついたきっかけが一体何だったかという点については、現代ではニュートン自身の主張や伝説は脇に置いておいてさまざまな検証・推察がなされていて、いくつかの説がある。ひとつは友人のロバート・フックがきっかけになっているとする説であり、ほかには、それ以前にも、この時代のイギリスの自然哲学者たちが影響を受けたケプラーの説(ケプラーの法則)を受けているとする分析もある。物が落ちる現象、つまり物体が地球に引きつけられる現象であれば、以前から誰もが知っていて、それに関する説は古代ギリシアのアリストテレスも自説を唱えていた。この時代のイギリスでは、ニュートンに限らず同時代の自然哲学者たち幾人もが先人のケプラーやガリレオの説にヒントを得て、それを一般化・改良しようと試行錯誤を始めていたらしい。

リンゴと力の単位ニュートン(N)

SI単位であるニュートン(記号:N)は、アイザック・ニュートンに由来する。リンゴの逸話が有名であるため、力の大きさを初等的に説明するのに、リンゴを持つ手のイラスト・写真を示して、リンゴの質量が手に及ぼす力を 1 N と説明することがしばしば行われる。詳細は、ニュートン (単位)#リンゴによる力の表現を参照。

自然科学における業績

ニュートン自身が所有していた『自然哲学の数学的諸原理』初版。第2版のために訂正指示を書きいれてある。
光学
1672年に王立協会のために作った6インチ反射望遠鏡のレプリカ

主に光学数学力学で業績があった。

ラテン語の主著『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica』(1687年7月5日刊、和訳名『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』)の中で、物質の量(現在の質量)や、現在における慣性運動量などに相当する概念を定義し、絶対的空間の概念を説明した上で、運動方程式などの運動の3法則万有引力の法則について述べ、数学を用いて(現代的な微分積分学は用いていない)、古典力学ニュートン力学)を創始。これによって実験的に示された地上の物体の運動と、観測によって得られた天体の運動を統一的な理論によって説明し、予測可能である事を示した。光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である。

ニュートンは、地球と天体の運動を初めて演繹的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に説明した一人であり、天体の軌道楕円双曲線放物線などの円錐曲線になる事を示した。また、働く力に対する、物体の抵抗度合いの量である慣性質量と、物体に働く万有引力の大きさを決定する、物体固有の量が比例関係にある事を指摘した(これにより、地上の物体の自由落下で、物体の質量に関わらず加速度が一定になる事を説明できる)。

色彩理論に関して、白色光は、それ以上分光できない単色光の混合色であり、白色光がガラスなどを通過して屈折した際に虹色になるのは、各単色光屈折率の違いによるものであるとして、この事をプリズムを用いた実験により確かめた。光の粒子説を唱えたが、古典的な意味では誤りだった 。1704年に英語で『光学』を発表。の色数を7色だとしたのも彼である。

ほかにも、ニュートンの冷却の法則運動量および角運動量保存の法則の端緒をつけ、空気中での音速恒星の起源などについて言及した(なお、現在の視座では多くが不正確なものであり、正しく完成させたのは後世の学者たちである)。

ニュートン力学を用いた、1749年ジャン・ダランベールによる正確な春分点歳差の計算、アレクシス・クレローによる1759年ハレー彗星の回帰の予測などを通じて、理論の正しさの社会的合意が形成された。  

数学分野においてはライプニッツとともに微分積分法の発見が特に重要な業績である。現在の定義で極限に相当する無限小について考察し、現在の導関数の元である流率の概念を考え、また「流率の逆演算」として積分を考えた。

ニュートンによる科学革命

ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、アリストテレスは全ての運動(キネーシス、変化)には原因があると考えていて、等速運動を含めて運動している物体は他者に動かされており、究極的には最初の動者が存在するはずだと考えた。ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。また、ヨハネス・ケプラー地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。

これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"われ仮説をつくらず)と宣言した。あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示したともされる。また、ニュートン力学形而上学的な理論に対する答えではなく、多様で広範な現象を計算可能な形で実際に予測する普遍的原理という、物理理論におけるモデルになった。

のちの時代に、科学者らは上記のような方法論が「実証主義による近代科学の礎になった」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。

これは「の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」ともいう。

伝統的なヨーロッパ社会における自然観は主に、古代ギリシア以来、アリストテレスによる、地上と天体の法則の区別があり、地上では固体は四元素のうち土としての性質により中心に向かうが、天体の運動(の規則)は不動でを好むというものなどであった。実際の理論としてはプトレマイオスによる、円(周転円・離心円・エカント)のみを使って修正された天動説が受け入れられていた。しかし、コペルニクス地動説ティコ・ブラーエ超新星1572彗星観察による変則的な天体活動の確認ヨハネス・ケプラー惑星楕円軌道説ガリレオによるクレーターの観察(月が球でない事を示す)・木星衛星観察などの諸発見により、この伝統は打破された。そしてニュートンが地上と天体も同じ法則によって支配されており、区別がない事を示した事で、場所・時間に関係ない普遍的法則の概念に達したと見ることができる。

自然科学以外の側面

ニュートンは自然科学分野において著しい功績を残していたが、それ以外の分野にも熱心に取り組んでいた。こうした事実は、科学者たちが自分たちに都合の悪いと思われた面は隠して、都合のいい面ばかりを強調し、フィクション的ニュートン像を語り続けた結果、20世紀始めには事実がすっかり忘れ去られてしまっていた。生涯の長い期間をケンブリッジで過ごしたニュートンは、そこに「ポーツマス・コレクション」と呼ばれる数多い未発表資料を残していた。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは1936年に一部を入手し、分析した成果もふまえ、1946年に『人間ニュートン』というタイトルの講演を行い、ニュートンを「最後の魔術師」とも「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」とも評した。1960年代には資料の批判的な研究が盛んになり、ニュートンが持つもうひとつの側面が鮮明になった。

科学の分野で偉大な功績を挙げたニュートンではあったが、我が強く気難しくて偏屈な一面もあり、議論において意見の合わぬ者は反論の余地すら与えず叩き潰すまで論破した。講義があまりに高度で難解なため、お手上げになった学生から順に退散、誰もいなくなった教室で一人講義を続けていた。生涯で一度だけ笑ったことがあるが、それは論敵がボロを出した嘲りの笑いだったという逸話が残っている。愛猫家としても知られており、研究や実験に超人的な集中力を発揮する反面、食事には無頓着で、食べ忘れて冷え切った食事を研究所に住み着いた2匹の猫に与えていた。当時、イギリス市井の一般通念において猫は単なる街に生息する獣の一種で、愛玩で飼うなどという風習は存在せず、人の食べ物を猫の餌にするのはかなり奇異な行為であった。現在においては珍しくもないが、ニュートンの「常軌を逸した天才の所業」の中でとりわけ特別なのが、猫たちが自由に出入りできるように大きい猫用と小さい猫用の大小2つの扉、つまり「キャットフラップ」を発明するが、大きい猫も小さい猫も大きな扉から出入りする様子を見て首を傾げたとの逸話が残っている。

キリスト教徒として

『ダニエル書と聖ヨハネ黙示録の預言についての所見』の表紙(1733年版の画像)

ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネ黙示録の預言についての所見』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』にまとめられた。この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史プロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。

絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。

ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定は、ニュートンが(同様に三位一体を否定したためにローマ教会から異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派の系譜を引く)ユニテリアン主義に属していたことを示している。

錬金術研究

ニュートンは、造幣局長官の地位に隠れて錬金術の研究を行っていた。20世紀になって、ニュートンの遺髪の分析により水銀が検出されたことはニュートンの錬金術にかける情熱を実証することとなった。

論争・先取権争い・感情的確執

ニュートンは同時代の人々としばしば争っていたことが知られている。

1660年代にはライプニッツ微分積分法の先取権をめぐって争いが生じ、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになった。

1672年にはロバート・フックと光の分散干渉の理論に関して論争になった。

1680年にはジョン・フラムスティードと彗星をめぐって論争になった。これは1か月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものかという論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だとしたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかったというものである。論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したものの、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、のちに王立協会の会長の地位についたときなどはその地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求するときにはフラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした。またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになったときには、それを形式的にはハリーの本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもした。

1686年には、プリンキピアの出版のとき、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した。

ニュートンの評価

同時代人

恩師バローから高く評価してもらえたうえに、ルーカス教授のポストを譲ってもらえ、アカデミー(大学)の世界では、地位として高い評価を得た。

学生からの評価に関しては、聴講する学生の数は減っていき、ついには出席する学生がいなくなってしまう事態にも陥ったため、講義のしかたやその内容についての学生からの評価はよいものではなかったようである。

もともとはニュートンと近しく友人だった自然哲学者ロバート・フックは、のちにニュートンをフックの万有引力に関する説を盗んだ者とみなし憎むようになった。ニュートンのほうもフックを憎んだ(ニュートンは王立科学協会で実権を握ると、協会にあった唯一の大切なフックの肖像画をこっそり処分してしまったと推察されている)。

同時代のヨーロッパ大陸側の学者たちは、ニュートンを高くは評価していなかった。ニュートンは当時の大陸側の自然哲学と異なった説を唱えたため、大陸側からは異様なものとみなされていた。ライプニッツなどの大陸派自然哲学者らからは、ニュートンの提唱した力学体系は目に見えない要素を大きく導入していたためオカルト的なものだとみなされ否定された。ライプニッツからは、数学の分野でライプニッツの積分法などを剽窃したと非難された。

後半生、同時代のイギリスの地元の人々からの評価に関して言えば、ケンブリッジ大学教授の地位、議員の地位も手に入れ、「サー」の称号も手に入れたため、概して「立派な人物」、いわゆる「名士」だとみなされていたと考えてよい。

後世

ウィリアム・ブレイクによるニュートン。「万能の幾何学者」として描かれている

ニュートンの業績は、19世紀になるとロマン主義の立場からは非難されるようになった。特に、ジョン・キーツウィリアム・ブレイクウィリアム・バトラー・イェイツらはニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言してはばからなかった。19世紀から20世紀初頭の科学者らが語る科学史では、ニュートンは天才的な自然科学者、自然科学界の一種の英雄といったイメージで語られた。ケインズもそうした英雄的イメージを聞かされて育ったが、長年の研究の結果、ニュートンを「最後の魔術師」や「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいる」と評するようになった。

現代

現代イギリス

アメリカ合衆国

  • トーマス・レヴェンソンは、ニュートンが自然科学に与えた影響よりも、イギリスの財政や金融に与えた影響の大きさに着目している。

年譜

ニュートン。エノク・シーマンによる肖像画 (1724) からの彩色版画
ニュートンのデスマスク

脚注

注釈

参考文献

  • アルベルト・A・マルティネス『ニュートンのリンゴ、アインシュタインの神 科学神話の虚実』青土社、2015年2月23日。ISBN 978-4-7917-6849-3 

関連項目

外部リンク


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