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キース・エマーソン

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キース・エマーソン
Keith Emerson
Keith Emerson standing desert mari kawaguchi (cropped).jpg
南カリフォルニアにて (2008年)
基本情報
生誕 (1944-11-02) 1944年11月2日
出身地 イギリスの旗 イギリス
死没

2016年3月11日(2016-03-11)(71歳)

ジャンル プログレッシブ・ロック
ロック
クラシック音楽
クラシック・ロック
アート・ロック
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
キーボーディスト
作曲家
担当楽器 ピアノ
ハモンドオルガン
モーグ・シンセサイザー
キーボード
ハープシコード
オルガン
アコーディオン
チェレスタ
クラビネット
活動期間 1967 - 2016
レーベル Edel Records (Germany/Europe)
ビクターエンタテインメント (Japan)
Shout! Factory
Manticore Records
J!MCO Records
サンクチュアリ・レコード
EMI
ライノ・エンタテインメント
Varèse Sarabande
Gunslinger Records
Cinevox Records
共同作業者 Gary Farr & The T-Bones
The V.I.P.'s
P.P. Arnold
ナイス
Free Creek
ELP
エマーソン・レイク&パウエル
3
Keith Emerson Band
Boys Club
公式サイト www.keithemerson.com

キース・ノエル・エマーソン英語: Keith Noel Emerson1944年11月2日 - 2016年3月11日)は、イギリス出身のキーボーディスト作曲家シンセサイザー奏者の草分け的存在であり、ロックにクラシックやジャズの要素を取り入れ、シンセサイザーを楽曲の中心に導入した先駆者とされる。

概要

ナイス時代 (1970年)
ELP時代
ELP解散後 (1980年代半ば)

1970年代前半にイギリスプログレッシブ・ロック・バンド「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」(Emerson, Lake & Palmer, ELP) のメンバーとして活動し、本国イギリスやアメリカを始め、世界的な人気と知名度を獲得した。また、当時まだ開発されて間も無いシンセサイザーモーグ・シンセサイザー)を世界に知らしめた功績でも知られる。特に「ロックという分野においてシンセサイザーをどう使うかという方法論を提示した最初の人物」とロバート・モーグから評されている。

略歴

ヨークシャー州のトッドモーデン生まれ。終戦後にウェスト・サセックス州ワージングに転居。8歳半よりピアノのレッスンを始める。15歳の時、地元で開催されたワージング・ミュージック・フェスティバルに出場し、バッハの部で2位を獲得。本人によると、これが人生初のライブ・ステージである。

その後、ワージングで編成されたスウィング・オーケストラでジャズ・ピアノを弾き始め、同オーケストラのベーシスト/ドラマーとともにジャズ・トリオを結成し、ジャズ・クラブなどでの演奏を手がけ、1963年末にはキース・エマーソン・トリオとしてピアノトリオ演奏で初レコーディング。この時の音源が2015年に限定発売されている。学校を卒業後、地元の銀行電算機課に就職したが、バンド演奏を優先したことで解雇された。

父親に頭金を手伝ってもらいハモンドオルガンを購入すると1965年にジョン・ブラウンズ・ボディーズというバンドを結成し、ブライトンのクラブ、ポップ・インに出演し始める。共演バンドであったTボーンズのドラマーのブライアン・ウォーキーに誘われ、ロンドンに出てゲイリー・ファー&T・ボーンズに加入。マーキークラブなどで演奏するようになる。1966年にはスプーキー・トゥースの前身であるヴィップス (The V.I.P.'s) というバンドに引き抜かれドイツのスタークラブなどで演奏活動をしていた。しかし、ヴィップスの最後のコンサート後出演してたクラブオーナーに金を持ち逃げされてしまった。英国に帰国する直前、最後のライブでP.P.アーノルドの売出しをしていたミッキー・ザ・オーと知り合う。

帰国後の1966年暮れ、解散したT・ボーンズのゲイリー・ファーのアパートを引き継ぐと、フランスで知り合ったミッキー・ザ・オーが住み着き始める。ミッキーからの紹介でパット・アーノルドに会いに行き、居間のフェンダー・ローズを演奏すると、パット・アーノルドのバック・バンド結成を持ちかけられた。そこで、T・ボーンズ時代の同僚のリー・ジャクソンらとバンドを結成すると移動中の車中においてアーノルドからナイスと名づけられ、1967年より単独バンドとして活動を開始する。

1970年、元キング・クリムゾングレッグ・レイクアトミック・ルースターカール・パーマーエマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP) を結成。著名なバンドのメンバーとして名を知られた3人が集結したELPはスーパーグループと呼ばれた。同年にバンド名を冠したデビューアルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』を発表。全英1位を獲得した1971年の『タルカス』、彼らの代表作とされる1973年の『恐怖の頭脳改革』など、ELPは9枚のアルバムを発表した。

ELPが消滅した後の1980年代には、エマーソン・レイク・アンド・パウエル3(スリー)などのバンド活動をおこなった。1992年および2010年にはELPを復活させた。

バンド以外の活動としては、ソロ・アルバムの他、映画音楽制作も手掛け、ダリオ・アルジェント監督の1980年のホラー映画『インフェルノ』、シルヴェスター・スタローン主演の1981年のスリラー映画『ナイトホークス』、1983年のSFアニメーション映画『幻魔大戦』、2004年の特撮怪獣映画『ゴジラ FINAL WARS』などのサウンドトラックを担当した。2011年3月11日の東日本大震災では、イギリスでニュースを見た同日に『The Land Of Rising Sun/日出ずる国へ』をサセックス州のスタジオで録音し、3月20日にYouTubeで公開、被災者に曲を捧げるとともに被災地への寄付を呼び掛けた。

自身が作曲に携わった『タルカス』が吉松隆によってオーケストラ化され、NHK大河ドラマ『平清盛』の劇中音楽に採用された。彼はコンサートマスターを務めた荒井英治に同曲の弦楽四重奏曲への編曲を提案した。荒井の編曲は、彼が第一ヴァイオリンを担当するモルゴーア・クァルテットの演奏によりCD化されている。

2016年3月11日未明、カリフォルニア州サンタモニカの自宅で倒れているのを同居の日本人女性が発見し通報、死亡が確認された。71歳没。当初は死因は不明とされていたものの、サンタモニカ警察は頭部を銃で自ら撃ったことによる自殺と判断、ロサンゼルス郡検視局によって自殺と断定された。訃報を受け、レイク、パーマー、多くのミュージシャンやアーティストから追悼コメントが寄せられた。

音楽性

ELP再結成期 (1992年)
ソロライブ (2006年)

エマーソンの音楽性の根本にはジャズ、クラシック、ロックの3本の柱がある。その時々においてウェイトは変わるものの、常にこの3つの柱が見え隠れする。使用する楽器においても彼独特の使用法、楽曲における意図などが存在している。楽器が持つ個性に対して愛着やリスペクトを公言する一方、独創性を追求するあまり時として奇行にも見える演奏法を試すことがある(後述)。

シンセサイザーを導入してからは、キーボードやフットペダルも含む複数のデバイスを四方に並べ、それらを全身を駆使して演奏するスタイルを確立。その機材は段状に積み上げられ、操作するデバイスは合計10台を超えることも少なくない。このスタイルは1980年代以降の彼のトレードマークになり、多くのライブやプロモーション・ビデオでも見ることができる。

ハモンドオルガン

エマーソンがデビューしたころ、ハモンドオルガンはジャズオルガンとしての使用が主流だった。彼はハモンドオルガンの新しい可能性を指向して、よりヘビーな音を出すための方法として、オルガンを歪ませる、2ndまたは3rdパーカッションの音を敢えて強調するという手段をとった。

ナイス時代にはL-100を用いていたが、後期に導入したC-3を後にレコーディングのメインキーボードとして使用し、L-100にはステージ用キーボードとしての役割を受け持たせた。また、自身の両側にC-3とL-100を置く理由は、C-3の下段鍵盤にはパーカッシヴ機能がないので両者のパーカッシヴ機能を利用するためだとプレイヤー誌に答えていた。C-3は後年MIDI改造して使用し続けた。

彼が痛めつける目的で使っていたのはL-100だった。使用不能になったものも多かったとされるが、彼は2005年のインタビューで実際に壊したものは3台だと語っている。電源を切ったり入れたりを繰り返してピッチを不安定にさせたり、鍵盤にナイフを突き立てて音を鳴りっぱなしの状態にしたり、本体を傾けたり持ち上げ、上に乗って揺さぶりながら前に進んだり、挙句の果てに本体を放り投げたり蹴り飛ばしていたりした。彼が毎回壊すためスタッフが金属で本体を覆って強化したところ、350ポンドぐらいだった重さが450ポンドぐらいになり、自力では持ち上がらなくなったという。また、過度の衝撃を与えてスプリング・リバーブの特性である爆発音を出したり、スプリング・リバーブに手を突っ込み爆音を鳴らしたり、L-100のスピーカーとオルガンのすぐ脇にあるキーボードのモニターとして使用されているPAスピーカーを近づけてハウリングを起こさせたり、本体の下敷きになって弾いたりなど、過激なステージングを行ったことから「オルガン(キーボード)のジミ・ヘンドリックス」と形容されたりもした。彼は「ピート・タウンゼントがやっていることと別に変わらない」「扱い方を知るまでは嫌がらずに修理してくれたが、知ってからは断られ続けた」と懐述している。

自伝には、その昔マーキークラブの常連バンドだったソウル・エージェンツのドン・シンというオルガニストの演奏を見て刺激を受けたと書かれている。シンがオルガンを分解しながら演奏しているのを見て、意図的に痛めつける方法を思いついたという。目的はバンドでそれまで地味な存在だったキーボードを目立たせるためで、ショーアップとして必要だったと述べている。音とビジュアルの相乗効果に関して試行錯誤の末、あのようなパフォーマンスを考えだした。

ナイス時代の1968年6月26日には、ロイヤル・アルバート・ホールで行われたビアフラ救済チャリティーコンサートに出演して、オルガンを蹴り飛ばして裏返しにした上にアメリカ国旗をのせて火を放ったので、同ホールから締め出されてしまった。1972年のELPの後楽園球場公演では、日本刀を振り回し鍵盤に突き刺した。

シンセサイザー

モーグ・シンセサイザーと晩年のエマーソン (2010年)
愛用していたミニ・モーグ

シンセサイザーを初めてロックに持ち込んだ一人として音楽史に功績を残している。その音色が初めて明らかになったのはELPのデビューアルバムの「タンク」および「ラッキー・マン」のエンディング部分でのソロにおいてであった。ライブでは、ハモンドオルガンの場合と同様に、リアルタイムで音色を作るという作業が「テクノロジーと人間との格闘」という図式を演出した。現在の音楽シーンにおいては格闘の部分は影を潜め、つまみをいじって音色を変える行為が、一つの表現形態として昇華されている。

ピアノなどのアコースティック楽器は、音の強弱が表現できても、音質が変えられない。一方、ハモンドオルガンなどは、ある程度音質が変えられるが、鍵盤を弾くタッチで音の強弱が変えられない」と、常にフラストレーションが溜まっていたという。一説には、モーグ・シンセサイザー開発の際の、モニター兼スタッフの中にも入っていたという。しかし、『ELP四部作』(1977年)以降はもっぱらヤマハのGX-1を愛用するようになり、それ以降は様々なメーカーのシンセサイザーを使用した。彼のオリジナリティ溢れる音色も存在するのだが、1990年代になってハモンドオルガンやピアノが再び重要な位置を占めてくる。その理由として「シンセサイザーは誰が使っても同じ音が出るが、ピアノやオルガンはそうではない」と語った。

サンプラーに関しては否定的な立場を取っており、フェアライトCMIの全盛期にもレコーディングやライブで使用することはなかった。エマーソン・レイク&パウエルのレコーディング準備中にフェアライトCMIを試してみたが、「不純だ」との理由で使用しなかった。メロトロンについても「ただテープレコーダーを鳴らしているみたいだ」と否定的だった。ELPは一時期、メロトロンをライブで使用したが、弾いたのはレイクだった。

エレクトーン

ヤマハのGX-1を使用。

ピアノを弾くエマーソン (1992年)

ピアノ

最初の鍵盤楽器はピアノだったことから「ピアノに一番思い入れがある」と語っていた。クラシック奏法を極めると同時に、オールドジャズにも大きく影響を受け、ソロで様々なジャズアーティストのフレーズを即興で弾き、そこからバンド演奏へと引き継ぐ、といったことも定番で行なった。左手が強く、アルペジオを延々と繰り返し、右手でソロを弾く、といったことも行なった。

主な活動

時折ジャズオーケストラなどのコンサートに飛び入りし、スタンダード曲やELPの曲をジャズ風アレンジしたものなどを演奏する。

プライベート

子供はアーロン (Aaron、生1970年)とデーモン (Damon、生1976年)。孫は2人。元妻エリノア (Elinor)とは1993年に公式離婚。彼女は「キース・エマーソン夫人」の名義で日本のロック・バンド「キャロル」のドキュメンタリー映画『キャロル』に出演している。

晩年は日本人のガールフレンドと共にカリフォルニア州ロサンゼルス郡サンタモニカに居住していた。

ディスコグラフィ

アルバム

  • 『ホンキー』 - Honky (1981年)
  • 『ザ・クリスマス・アルバム』 - The Christmas Album (1988年)
  • 『チェンジング・ステイツ』 - Changing State (1995年)
  • 『エマーソン・プレイズ・エマーソン』 - Emerson Plays Emerson (2002年)
  • 『ハマー・イット・アウト』 - Hammer It Out: The Anthology (2005年)
  • 『オフ・ザ・シェルフ』 - Off The Shelf (2006年)
  • 『キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラ』 - Keith Emerson Band featuring Marc Bonilla (2008年)
  • 『スリー・フェイツ・プロジェクト』 - The Three Fates Project (2012年) ※マーク・ボニーラ、テリエ・ミケルセンと連名

サウンドトラック・アルバム

  • 『インフェルノ』 - Inferno (1980年) ※『インフェルノ』(ダリオ・アルジェント監督)サントラ
  • 『ナイトホークス』 - Nighthawks (1981年) ※『ナイトホークス』(ブルース・マルムース監督)サントラ
    「アイム・ア・マン」で当初、スティーヴ・ウィンウッドに歌わせるはずが、スティーヴのスケジュールの都合がつかず、締め切りが迫り自暴自棄になって泥酔状態でボーカルを担当する羽目になった(『ミュージック・ライフ』のインタビューより)が、現在入手可能なほとんどのビデオ商品では別の曲に差し替えられている。
  • 『幻魔大戦』 - Harmageddon (1983年)
    アニメ映画『幻魔大戦』サウンドトラック。原作者のひとり平井和正は、エマーソンの音楽を絶賛している。
  • 『ベスト・リヴェンジ』 - Best Revenge (1985年)
  • 『マーダーロック』 - Murder Rock (1986年) ※ルチオ・フルチ監督作
  • Iron Man Vol1 (2002年) ※「アイアンマン」(1994年のテレビシリーズ)サントラ
  • 『ザ・チャーチ(デモンズ3)』 - La Chiesa (2002年) ※『デモンズ3』(ミケーレ・ソアヴィ監督・1989年)サントラ
  • 『ゴジラ FINAL WARS』 - Godzilla: Final Wars (2004年) ※『ゴジラ FINAL WARS』(北村龍平監督)サントラ
    CDのライナーノーツには、本作品の音楽を担当したことを「名誉なこと」と書いている。ただし時間的な制約が厳しかったため出来栄えには不満があるという。

関連人物

脚注

注釈

参考文献

  • Emerson, Keith (2003), Pictures of an Exhibitionist, John Blake, ISBN 9-781904-034797 
  • Hanson, Martyn (2014), Hang on to a Dream: The Story of the Nice, Foruli Classics, ISBN 978-1-905792-61-0 
  • Macan, Edward (2006), Endless Enigma: A Musical Biography of Emerson, Lake and Palmer, Open Court, ISBN 978-0-8126-9596-0 

外部リンク


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