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クンバー
クンバー Kumbha | |
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メーワール王 | |
クンバー | |
在位 | 1433年 - 1468年 |
別号 | マハーラーナー |
出生 |
1427年頃 |
死去 |
1468年 |
子女 |
ウダイ・シング ラーイ・マル |
王朝 | シソーディヤー朝 |
父親 | モーカル |
宗教 | ヒンドゥー教 |
クンバー(Kumbha, 1427年頃 - 1468年)は、北インドのラージャスターン地方、メーワール王国の君主(在位:1433年 - 1468年)。クンバカルナ・シング(Kumbhakarna Singh)とも呼ばれる。
生涯
1427年頃、メーワール王国の君主モーカルの息子として誕生した。
1433年、父モーカルが暗殺されたことにより、クンバーが王位を継承した。彼は内部の敵を倒して自身の地位を固めたが、このときマールワール王国の君主ラン・マルの助力を得た。
その後、クンバーはブーンディー王国、コーター王国、ドゥーンガルプル王国の征服をはじめた。コーターはマールワー・スルターン朝、ドゥーンガルプルはグジャラート・スルターン朝にそれぞれ忠誠を払っていたため、メーワール王国はマールワー・スルターン朝とグジャラート・スルターン朝と対立することとなった。
1440年、クンバーはマールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝の連合軍に対して、十万の歩兵・騎兵、1400の象軍で相手した。そして、連合軍に壊滅的な打撃を与え、首都チットールガルには記念搭たるヴィジャイ・スタンバーが建てられた。全長37メートル、9階建てのこの塔は1448年に完成した。
1442年11月、マールワー・スルターン朝の君主マフムード・シャーはメーワール王国に遠征を行った。いくつかの都市を占領したのち、雨期に入ったので王国内にとどまった。
1443年4月、クンバーはマフムード・シャーの陣営に攻撃をかけた。この攻撃により打撃を受けたマフムード・シャーはマールワーの首都マーンドゥーに帰還した。
同年11月、マフムード・シャーはメーワール王国に再び侵攻し、いくつかの都市を占領した。だが、彼はチットールガルは占拠しなかった。
1446年10月、マフムード・シャーはマーンダルガルを攻撃したが、反撃にあってこれは成功しなかった。その後、マールワーはメーワールを10年間攻撃することはなかった。
また、クンバーはのち、マールワー・スルターン朝と敵対するグジャラート・スルターン朝、デリー・スルターン朝と同盟を結んだ。クンバーはグジャラート・スルターン朝、デリー・スルターン朝から「ヒンドゥー・スラトラーナー」(ヒンドゥーのスルターン)の称号を与えられた。
1453年あるいは1454年、ナーガウルの支配者フィールーズ・ハーンが死亡した。その息子であるシャムス・ハーンは叔父ムジャーヒド・ハーンから支配者の地位を奪うため、クンバーに援助を求めた。クンバーはシャムス・ハーンを援助し支配者の地位に昇らせたが、のちにグジャラート・スルターン朝と結ぼうとしたことに腹をたて、1456年にナーガウルとその周辺都市を占拠した。
同年、グジャラート・スルターン朝はこれに対しメーワール王国へ進軍、シローヒーを占領、クンバルメールを攻撃した。その際、グジャラート・スルターン朝はメーワール王国を攻撃するため、マールワー・スルターン朝と戦利品を分割する条約をチャーンパーネールで締結していた。だが、クンバルメールを占拠できず、メーワール王国の首都チットールガルへの進軍ははばまれた。
1456年、マールワー・スルターン朝のマフムード・シャーはアジュメールを占領、12月にはマーンダルガルを占拠した。アジュメールには地方長官が置かれ、その間にはグジャラート・スルターン朝が二度クンバルガルを包囲した。だが、ここでマールワール王国の君主ジョーダーがマンドールを確保した。これにより、クンバーは多方向からの攻撃に耐えることができ、これらを撃退した。
1458年、グジャラート・スルターン朝の君主アフマド・シャー2世が死亡し、グジャラートの軍勢は引き上げた。マフムード・シャーもまたこれを機に撤退し、戦闘は終結した。
クンバーはこのようにマールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝の軍勢をたびたび打ち破った。彼はマールワーとグジャラートの二強国との戦いで不利な状況に置かれても、それをものともせず、ランタンボールなどの外縁地域を除いてはその征服地を多く維持できた。また、クンバーはメーワール王国内に32の城塞を建築したが、その中でもクンバルガルが今が一番立派であった。
また、クンバーは王国では学者を保護し、彼自身も学者であって、いくつも本を書いた。彼は灌漑のために人造湖や貯水池を掘らせたり、また彼の時代にはいくつか寺院が建設されたが、その石切りや彫刻の技術が最高度の段階にあった。
1468年、クンバーは自分の息子ウダイ・シングによって暗殺された。
脚注
参考文献
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
- P・N・チョプラ 著、三浦愛明 訳『インド史』法蔵館、1994年。