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シド・チャリシー

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シド・チャリシー
Cyd Charisse
シド・チャリシー Cyd Charisse
1949年
本名 Tula Ellice Finklea
生年月日 (1922-03-08) 1922年3月8日
没年月日 (2008-06-17) 2008年6月17日(86歳没)
出生地 テキサス州アマリロ
死没地 カリフォルニア州ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 ニコ・チャリシー (1939-47)
トニー・マーティン (1948-2008)

シド・チャリシーCyd Charisse1922年3月8日 - 2008年6月17日)はアメリカ合衆国女優ダンサーである。1950年代ハリウッド黄金期にミュージカル映画で活躍し、フレッド・アステアジーン・ケリーの相手役として知られる。

日本ではシド・チャリシーと表記されることが多いが、発音に近い表記はシド・シャリッシ、シド・シャリッス、あるいはシド・チャリースである。

人物と経歴

デビュー

チャリシー(本名:Tula Ellice Finklea)はテキサス州のアマリロ生まれ。兄弟からは“Sis”と呼ばれていた。彼女はロサンゼルスでバレエを学び、その後“Siderova”という芸名でバレエ・リュスに参加した。第二次世界大戦勃発後、チャリシーはロサンゼルスに戻り、コール・ポーター作のミュージカル映画 Something to Shout About のダンサー役で女優デビュー。映画の振り付け師が、ジーン・ケリーを見いだした人物であったことから、チャリシーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーでミュージカル映画を専門に手がけるプロデューサー、アーサー・フリードの創作集団「Freed Unit」に参加することになった。

ミュージカル黄金期

当時のMGMの二枚看板はフレッド・アステアジーン・ケリーだったが、チャリシーはその二人の相手役をつとめる幸運に恵まれた。

チャリシーが初めてアステアと共演したのは、短編映画『ジーグフェルド・フォリーズ』(1946)。二度目の共演作『バンド・ワゴン』(1953)ではヒロインに扮し、彼女とアステアのダンスは絶賛された。1957年、チャリシーは再びアステアと組み、『絹の靴下』に出演。これはグレタ・ガルボ主演映画『ニノチカ』(1939)のミュージカル版リメイク作品であり、彼女はガルボの有名な役を演じた。アステアは彼の自伝でチャリシーに惜しみない賛辞を送っている。

ジーン・ケリーとは『雨に唄えば』(1952)で初共演し、『ブリガドーン』では準主役で出演。『いつも上天気』(1956)では、ケリーと並んで主役をつとめた。

1952年には、チャリシーの美しい脚に500万ドルの保険が掛けられて話題となった。この保険金額は、それまでのベティ・グレイブルの記録を抜いてハリウッド史上ナンバーワンとなった。

多彩な活動

1950年代後半、ハリウッドのミュージカル黄金期に終焉が訪れ、チャリシーがダンスを披露することはなくなった。しかし、チャリシーはそれからも女優として、映画やテレビに出演し続けた。チャリシーの活動は多岐に渡り、ブルー・メルセデスの I Want To Be Your Property (1987)とジャネット・ジャクソンオールライト」(1990)のミュージックビデオには、カメオ出演して話題を呼んだ。また、1990年には活動的な熟年層を対象にしたエクササイズビデオ「Easy Energy Shape Up」を発売した。

チャリシーは80代を迎えても現役であり、ハリウッドの黄金期を取り上げたドキュメンタリーに度々出演している。2001年には、ギネスブックの特集で「最も価値のある脚」の持ち主として取り上げられた。2006年には、アメリカ合衆国における文化勲章、National Medal of the Arts and Humanitiesを受賞した。

私生活

チャリシーは1939年にニコ・チャリシーと結婚し、長男を出産するも1947年に離婚。1948年に歌手のトニー・マーティンと再婚し、次男を出産。彼女は亡くなるまで、60余年の長きに渡ってマーティンの妻であり続けた。

2008年6月17日ロサンゼルス病院にて心臓発作で亡くなった。86歳。 。

主な出演作品

参照

外部リンク


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