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ド・ブランヴィリエ侯爵夫人
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マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー Marie Madeleine Dreux d'Aubray | |
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死刑判決を受けた直後のド・ブランヴィリエ侯爵夫人
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個人情報 | |
別名 |
ド・ブランヴィリエ侯爵夫人 (Marquise de Brinvilliers) |
生誕 |
(1630-07-02) 1630年7月2日 フランス王国 パリ |
死没 |
1676年7月16日(1676-07-16)(46歳) フランス王国 |
死因 | 斬首による刑死 |
殺人 | |
犠牲者数 | 不明 |
国 | フランス王国 |
司法上処分 | |
刑罰 | 死刑 |
有罪判決 | 1676年 |
判決 | 死刑 |
マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー(フランス語: Marie Madeleine Dreux d'Aubray, 1630年7月2日 - 1676年7月16日)は、17世紀フランスの連続殺人犯(シリアルキラー)。(ド・)ブランヴィリエ侯爵夫人(フランス語: Marquise de Brinvilliers)として知られる。
パリの司法官アントワーヌ・ドルー・ドブレー(Antoine Dreux d'Aubray)の長女として生まれる。母方の叔父に聖スルピス会創立者のジャン=ジャック・オリエ (fr) がいる。
21歳でマレ地区南東端(現在のパリ4区)内に居を構えるブランヴィリエ侯爵アントワーヌ・ゴブラン(Antoine Gobelin, marquis de Brinvilliers)に嫁いだが、愛人との派手な不倫生活をおくった。愛人と共謀して、遺産目当てに父親を毒殺するため慈善病院に熱心に通いつめ、病人相手に人体実験を繰り返して毒の効果を試した後、父親に少しずつ毒を盛って殺害した。その後、遺産を独り占めにするために兄弟たちも始末し、その娘や夫たちも狙った。しかし愛人が事故死し、自宅から犯行の記された手紙を警察に押収されたことから、国外に脱出してヨーロッパ各地を転々とし、最後に修道院に身を潜めた。そこでひっそりと生活しながら告白録を執筆したが、刑事におびき寄せられて外に出た所を逮捕された。裁判では全く罪悪感を見せなかったが、水責めでは口を割らず、火刑法廷で拷問が進むとさすがに反省した。死刑を宣告され、即刻斬首刑に処された。
関連作品
- 『火刑法廷』ジョン・ディクスン・カー/日本語版:小倉多加志 訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)
- 『ブランヴィリエ侯爵夫人』 中田耕治(血と薔薇文庫)※『淫蕩なる貴婦人の生涯』(集英社)の改題
- 『皮の漏斗』コナン・ドイル /延原 謙 訳