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パトリック・プルー
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パトリック・プルー

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パトリック・プルー
人物情報
生誕 1963年8月19日
フランスの旗 フランスヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュ
国籍 フランスの旗 フランス
出身校 パリ第5大学医学部
学問
研究分野 救急医療
学位 博士号
主な受賞歴 名誉博士号(パリ高等ジャーナリズム学院)、ブリュッセル自由大学功労賞、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ

パトリック・プルー(Patrick Pelloux、1963年8月19日 - )はフランスパリ市救急医療支援サービス(SAMU、本部:ネッケール病院)の救急医、労働組合活動家および作家である。

シャルリー・エブド』の医療コラムを担当し(2015年9月まで)、2018年4月からは『月刊シネ』に執筆している。また、「フランス5」の番組『医療マガジン』にも出演している。

経歴

医師になる決意

ヴァル=ド=マルヌ県ヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュ出身。父親は運動療法士で、叔父の一人は総合診療医であった。中学生の頃、「国境なき医師団」の活動をテレビで見て、医師になる決意をしたという。

パリの実験校(リセ)「欧州国際校」およびパリ第5大学医学部で学んだ。早くから救急医療の問題に取り組み、博士論文の題目は「サンタントワーヌ病院の緊急外来患者数の激増について ― 1993年11月30日の路面凍結」であり(1995年)、救急・災害医療の医師の資格を取得した(1996年)。

1997年から救急医の労働組合「フランス病院救急医協会 (AMUHF)」(後に「フランス救急医協会 (AMUF)」に改名)の会長を務めた。

2003年の猛暑

パトリック・プルーの名前が知られるようになったのは、フランスで高齢者を中心に14,800以上が死亡した2003年の猛暑(ヨーロッパ熱波)の際である。彼はかなり早くから(最初の50人ほどの死亡が猛暑の影響であることを指摘し)様々な報道番組に出演して、医療サービスにおけるこの猛暑の影響について警告し、対応の遅れを非難した。

(AMUHF会長パトリック・プルー博士の発表によると)パリに隣接する高級郊外住宅街のあるオー=ド=セーヌ県全体で、8月15日の週末、連絡可能な医師は、実に2名のみであった。「多くの在宅高齢者を患者に持つ家庭医は、継続性が肝心。代診者とのコンタクト方法も伝えずに休診した医師は、もはや犯罪者である」と糾弾する。彼は、「最初に異常を感じた時点で、何度も行政機関に警告したが、10日間以上、政府から何の反応もなかった。救急の廊下は夏季病床閉鎖の影響で行き場のない患者で溢れていた。搬入された時点で既に力尽き果てている高齢者が」と続ける。そして、「我々、病院救急勤務医は過酷な労働条件に長年さらされ、その多くがバーン・アウトしている。今回も、最前線で病診連携の後援もなく孤闘した感がある」とも。

彼はこれ以前から医療サービスの改善(特に新病棟の建設)のために病院内でも労働組合においても、さらには『シャルリー・エブド』の医療コラムにおいても様々な働きかけを行っていたが、これを機会にメディアに取り上げられ、やがてオピニオンリーダーの役割を果たすことになった。だが、彼の医療制度批判に病院側はますます神経をとがらせ、挙句は嫌がらせを受け、解雇されることになった。その後、パリ市救急医療支援サービスの救急医になったのは、当時のパリ市長ベルトラン・ドラノエの取り計らいによるものだったという。

シャルリー・エブド襲撃事件後の記者会見 (事件後、一時的に編集部を置いていたリベラシオン社にて) - 中央に『シャルリー・エブド』のメンバー3人。右手がパトリック・プルー (2015年1月)

シャルリー・エブド襲撃事件・パリ同時多発テロ事件

2015年1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件の際は、真っ先に駆けつけて救命に当たった。翌8日にBFM TVに出演し、「(電話を受けてから)3分後に現場に到着して救命に当たったが、頭を撃たれていて、もうどうしようもなかった。仲間を助けることができなかった」と泣き崩れ、「(犯人らは)シャルリー・エブドだけでなく民主主義を破壊しようとしたのだ … 新聞を続けなければならない。やつらを勝たせるわけにはいかないのだから」と語った。

また、この10か月後のパリ同時多発テロ事件の際にも、サンタントワーヌ病院やピティエ=サルペトリエール病院の救急医療センターを中心に医療スタッフを編成・統括したのがパトリック・プルーだった。「医師や看護士らが勤務時間外にもかかわらず自発的に出勤 … 休暇中もしくは引退した医師や看護士までが続々とやってきた…c緊急医療室には、「どうしたら協力できるか」との問い合わせの電話も相次いだ」。まるで「戦場の殺戮のようだ」、「実弾に撃たれた人間が次々と運ばれてくる・・・こんな光景は見たことがない・・・野戦病院のようだ」と、事件の翌々日、BFM TVで現場の様子を語った。

医療・社会貢献

2015年6月29日、これまでの医療・社会貢献に対してフランソワ・オランド大統領からレジオンドヌール勲章を授与された。

2015年からパリ公立病院連合(公的扶助 - パリ病院)の医療施設委員会の議長を務めている。

最近では、要介護高齢者施設 (EHPAD) の人的・物的資源不足の問題について厚生省に請願書を提出。また、救急医療サービスで緊急電話に対応せず、数時間後に患者が死亡した事件でも、翌日の夜に Europe 1に出場し、救急医療体制の改善を求めた。

幅広い活動

2015年11月、パリ高等ジャーナリズム学院から名誉博士号を授与された。

2016年5月、ブリュッセル自由大学にその功労を称えられた。

2017年、『ル・パリジャン』紙の最も影響力のある人物で7位に入った。

医療活動以外にも、移民支援、居住の権利に関する活動、不法滞在学生への支援、経済問題に関する活動、動物福祉運動、さらには『SAINT LAURENT/サンローラン』等の複数の映画で医者役を演じるなど、非常に幅広い活動を展開している。

シャルリー・エブド』の医療コラムの記事をまとめた『Histoire d'urgences (緊急の話)』、シャルリー・エブド襲撃事件後の自らの苦しみを綴ると同時に、医師としてテロリズムの犠牲者とどう向き合うかについて語った『L'instinct de vie (生の本能)』など著書も多い。

脚注


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