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メヘル・バーバー
メヘル・バーバー (Meher Baba, ウルドゥー語: مهر بابا, ヒンディー語: महर बाबा、1894年2月25日 - 1969年1月31日)、誕生名メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は、インドのパールシーの出身で、インドの神秘家であり、1954年に今世代のアヴァターラと公衆に宣言した霊的指導者である。インドのマハラシュトラ州プネー市(旧称プーナ)で生まれ、マハーラーシュトラ州のメヘラザード(Meherazad)で肉体を離れたという。
- 「私は知識を伝えるために来たのではない。あなたたちの目を覚ますために来た」
概要
メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)は1894年にインドのPuneで、ゾロアスター教徒の両親の元で生まれた。彼の霊的変遷は、彼が19歳の年に始まり7年間に及んだ。この間、5人の霊的マスターと接触し指導を受けた。彼が自分自身のミッションに目覚め、自分自身の弟子を集め始めたのは、1922年の初頭で、27歳の年齢であった。
1925年の7月10日から肉体としての生命を終えるまでずっとメヘル・ババは沈黙を維持し続け、アルファベットが書かれたボードや、独自の手を用いるジェスチャーで意志を疎通した。彼のマンダリ(弟子たちのサークル)とともに、彼は長い期間独居生活を送ったがその間はよく断食をした。彼はまた広く旅をした。また、公衆を集めるダルシャンやサハバスと呼ばれる集合を行い、ライ病患者や、貧乏な人々への慈善活動にも従事した。
1931年にメヘル・ババは、西洋諸国を初めて多数訪問した。その歴訪でババは沢山の弟子たちを魅了した。
1940年代は、ほとんどの間メヘル・ババは、マスト(masts)と呼ばれる霊的求道者の特殊な人々と仕事をした。ババの言葉に拠れば、彼らは内的な霊的体験によってトランス状態に或いは、神に酔える状態に入った人々であった。1942年に『ニューライフ』と彼が呼ぶ期間に入ると、選ばれたマンダリたちとのみ、ババは身分を隠してインド中を旅し、謎に満ちた大いに説明不能な時期を過ごしている。
2回に及ぶ深刻な自動車事故で乗客として負傷。一回は1952年にアメリカ合衆国で、一回はインドで1956年に負傷した。その後、歩行能力が酷く低下した。1962年にババは、『東洋と西洋の集合』と呼ばれる大きな大衆ダルシャンで西側から多数の弟子たちを招いた。LSDやサイケデリックドラックを大幅に使用することを危惧し、1966年にババは、それらの薬物が本物の利益にならないと述べた。健康状態の悪化にもかかわらずババは、彼が『ユニバーサル ワーク』と呼ぶものを続けた。その内容は、断食と独居を含んでいて、1969年1月31日の彼の死の直前まで続けられた。彼のサマディ-Samadi(霊廟)はインドのメヘラバッド(Meherabad)にあり、今では国際的な巡礼の地となっている。
メヘル・ババは、人生の大義や目的について数多くの講話を与えてきた。その中には輪廻転生の教えや、現象世界は幻影だという教えも含まれている。彼は宇宙は想像だ神こそが実際に存在すると、更にそれぞれの魂は、実際は神自身の神性を個別化して実現するために想像によって生じているが、実際は神であると教えている。それに加えて輪廻転生の生死を逃れ、”神-実現”を達成したいと望む求道者には実践的なアドバイスを与えている。彼はまたパーフェクト・マスターについての概念や、アヴァターについてや、彼が退縮と呼ぶ霊的な様々のステージについての概念も教えている。彼の最も重要な教えは、Discourses(メヘル・ババ講話集)とGod Speaks(神は語る)の二冊の重要な本の中に記録されている。
彼の遺産は、インドにババが設立したAvatar Meher Baba Charitable Trustに含まれている。その中には、いくつかの情報センターと巡礼の場、ポップカルチャーアーティストたちに及ぼした影響や、『心配するな。いつも幸せでいなさい。(Don't warry be happy)』というようなババが常に用いていた表現の紹介も含んでいる。メヘル・ババの沈黙は、世間の他の人々と同様に、彼の信者である人々の間にも神秘的な謎のまま残っている。
生涯と活動
若年期
メヘル ババは、インドのプネーでゾロアスター系の家庭に生まれたイラン系インド人である。彼の俗名は、メルワン・シェリア・イラニー(Merwan Sheriar Irani)といった。彼は、父シェリアル・イラニ(Sheriar Irani)の第二子である。シェリアル・イラニは、ペルシャ系のゾロアスター教徒で、プーナ(現在のプネー)に居住し、母シレーン・イラニ(Shireen Irani)と結婚する前は、霊的経験を探求し放浪の生活を何年も送っている。
少年時代にメルワンは『コスモポリタンクラブ』を創設した。このクラブの目的は、世界情勢に精通し慈善活動に資金を募ることであった。彼は、様々な楽器を奏で、詩を書く青年であった。いくつかの言語に通暁し、ハーフェズ、シェークスピア、及びシェリーの詩が特に好きであった。
若い時に、メルワンは全く神秘的傾向や経験を持たなかった。つまり、『まだ自分自身の運命の予感に惑わされることはなかった…』彼は何よりスポーツに関心があり、中学校のクリケットチームの副キャプテンをしていた。19歳の時に、プネーのデカン大学の2年生のときにメルワンは、非常に高齢の回教徒の女性に出会った。地元では聖者として尊敬されているハズラッド・ババジャン(Hazrat Babajan)と呼ばれる聖者が、メルワンの額にキスをした。この出来事が、彼に深遠な影響を及ぼした。そのキスはメルワンの目を眩ませることになり、彼は普通の活動ができなくなった。その後彼は、他の霊的指導者たちに接触することになる。その人々はババジャンの他に、その時代のパーフェクト・マスター達(Parfect Master)であった5人の人々だタジュディン・ババ(Tajuddin Baba)、ナラヤン・マハラジ(Narayan Maharaji)、 シルディ・サイ・ババ(Sai Baba of Shirdi)、及びウスパニ・マハラジ(Uspani Maharaji)であった。
ウスパニ・マハラジは、ババが後に語ったところによれば、メルワンが自分の神秘経験を普通の意識に統合する手助けをしてくれた。そのようにして、マハラジはババが神-実現の経験を減少させることなく世間で機能できるようにした。ウスパニと7年間ともに生活した後の、1921年後半の27歳の年に、メルワンは自分自身の従者を引き寄せ始めた。彼の初期の弟子たちは、彼に『メヘル・ババ』という名前を送った。それは、ペルシャ語で『慈愛深き父』という意味である。
1922年に、メヘル・ババと彼の弟子たちはボンベイ(現在のムンバイ)に“Manzil-e-Meem”(マスターの家)を設立した。其処でババは、自分の弟子に厳しい訓練と服従を強いる実践を始めた。一年経ちババとマンダリ(mandali)はアヘメドナガー(Ahmednagar)から2,3マイル離れたところへ移動し、そこを“Meherabad”(メヘルが栄える)と名付けた。このアシュラム(精神的な修行の場所)が後に、彼の仕事のセンターとなった。1920年代にメヘル・ババは、メヘラバッドに学校、病院と薬局を開いた。これらの3つの施設は、全てのカーストの人及び、全ての信仰の人に開放された。
1925年の7月にメヘル・ババは、一生続くことになる自ら課した沈黙を開始した。まずはチョークと黒板を用いて意思疎通し、やがてはアルファベット板や、彼独自の手によるジェスチャーを用いて意思の疎通をした。1927年の1月に、彼はペンや鉛筆を用いることも断念した。
1930年代――西洋との最初の接触
1930年代にメヘル・ババは、広範に渡る世界旅行を開始した。その中には、数回に渡るヨーロッパとアメリカ合衆国への旅行を含んでいる。ババが最初の西洋の弟子たちの親しいグループと接触を確立したのはこの時期であった。彼は、ペルシャのパスポートで旅をした。理由は、この頃は話すだけでなく、書くことも断念していたので、インドの英国政府によって要求される書式に署名をしたくなかったからだ。
1931年の英国への最初の旅で、彼は「ラージプタナ」という船で旅をしたが、この同じ船にマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)が乗船していた。ガンディーは、ロンドンでの第2回目の円卓会議へ向けて航海していた。ババとガンディーは船上で3回会談した。そのうち1回は、3時間にも及ぶものであった。英国の新聞はこれらの会談を特集した。だが、ガンディの秘書は『新聞は、ガンディがメヘル・ババに援助も、霊的アドバイスも、その他のアドバイスも決して求めなかったと強く書くべきだ。』と言った。
1932年5月20日にババは、ニューヨークに到着し、1000単語に及ぶメッセージを記者クラブに提供した。その内容は、ババの信者であるクエンティン・トッド(Quentin Tod)によってババの『アメリカへのメッセージ』として書かれている。その文章の中で、ババは自分は“全てのものの無限の源泉を持っている者”だと宣言し、自身の沈黙を破る意図も宣言している。『私が沈黙を破るときに、私の本来のメッセージが世界中に配信され、そのメッセージは受け入れられねばならないだろう。』インドと英国の政治的状況に関しては、彼は全くコメントしなかったが、彼の信者たちは、ババがガンディに政治を放棄するように告げたと説明していた。
西洋で、メヘル・ババは沢山の有名人や芸術家と会った。その中にはゲイリー・クーパー、チャールズ・ロートン、タルラー・バンクヘッド、ボリス・カーロフ、トム・ミックス(Tom Mix)、モーリス・シュヴァリエ、エルンスト・ルビッチやその他の人々が含まれている。1932年6月1日に、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス・ジュニアが、ピックフェイア(Pickfair)でババのためのレセプションを開催した。そこでは、ババはハリウッドへのメッセージを配布した。結果として、メヘル・ババは、『30年代の様々な情熱の一つ』として登場した。
1934年にハリウッド・ボウルで自らに課した沈黙破りを行うつもりだと宣言した後に、ババは予定を突然変更して、エンプレス・オブ・カナダという船に乗って、説明もなくホンコンへと旅立ってしまった。新聞連合会は、『ババは、「状況が熟していない」という理由で沈黙破りを来年の2月まで決定した』と伝えた。
1930年代の後半に、メヘル・ババは、西洋人の女性グループをインドへ招待した。そこでは、ババはインドとセイロン(現在のスリランカ)を縦断する一連の旅をアレンジした。その旅は、ブルーバスツアー(Blue Bus Tours)として知られている。彼らが帰国した時には、多くの新聞が彼らの旅をスキャンダルの機会だと捉えていた。1936年のタイムマガジンの総編集に、〈神は私の冒険である〉というババの言葉を引用して、4年前の『長い髪の絹のようなペルシャ人、シリ・サッドガル・メヘル・ババ(Shri Sadgaru Meher Baba)』に対する合衆国の熱狂ぶりを揶揄しながら報じています。
1940年代――Mastsと新しい生活
1930年代と1940年代にメヘル・ババは、彼が『マスト(Masts)』と名付けたカテゴリーの人々と集中的に仕事をした。彼らは『神に酔える人々』だ。ババによれば、これらの人々は高次の霊的次元の魅力的な経験によって本質的に障害を抱えている。外形からみれば、マストは不合理的で、狂ってさえいるように見えるが、ババは彼らの霊的地位は実際に極めて高いと主張し、ババがマストに会うことによって彼らが霊的に進歩するように援助する。一方で、ババの霊的仕事に彼らの力を借りていた。これらのマストの中で最も良く知られた人は、モハンメド・マスト(Mohammed Mast)と呼ばれ、2003年に亡くなるまでメヘル・ババの施設内に同居していた。
1949年に、ババは『New Life』と呼んだ謎に満ちた時期を発足した。ババの最も難しい要求にさえ即座に対応できるか否かを試す様々な質問を投げかけた後に、ババは完全な『hopelessness(絶望)とhelplessness(無力)』の生活に参加する20人の従者を選んだ。
ババは、自分に依存して生活している人々のために準備をし、その日以後、ババと20人の選ばれたメンバーは、それ以外の目的での、全ての財産と、全ての金融的責任を断念した。やがて、彼らは『New Lifeの条件』という一連の厳格なルールに従い、食事を求めて乞食したり、ババの指示を実行したりしながら、身分を隠したままインド中を旅して回った。これらは、どんな状況でも絶対に受け入れ、どんな困難に直面しても、常に陽気さを失わないことを含んでいた。従うことができない仲間は、送り返された。
New Lifeについてメヘル ババは次のように記している。
『このNew Lifeは、終わりがない。私が肉体として死を迎えた後にも、New Lifeは、偽、嘘、憎しみ、怒り、強欲、欲情を完全に放棄する人生を生きる人々によって生き続けられるであろう。これらの人々は、完全な放棄の人生を達成するために、全く情欲も起こさず、誰にも害を与えず、陰口もきかず、物質的所有を求めず、権力も求めず、全く尊敬も受けず、名誉におもねらず、恥辱を否定せず、誰も何も恐れることがない。彼らは、全く、そして専ら神にのみ依存していて、愛するためにのみ純粋に神を愛している。彼らは、神を愛するものを信じていて、神の愛の顕示の真実を信じていて、全く何も霊的、物質的報酬を求めない。彼らは、真理を忠実に守り、悲惨な出来事に動揺せず、勇敢に全身全霊をもって100%の陽気さで全ての困難に直面する。彼らは、カーストや、教義や、宗教的セレモニーに全く重要性を置かない。このNew Lifeは、独力で永遠に継続し、その生活を誰も行わなくなっても、生き続けるであろう。』
Meher Babaは、1952年の2月にNew Lifeを終結し、インドと西洋で、大衆と接触する行事を再び始めた。
1950年代――God Speaksと交通事故
1950年代に、ババはインド以外に二つのセンターを設立した。その二つとは、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州のマートルビーチにあるメヘルスピリチュアルセンター(Meher Spiritual Cente)とオーストラリアのブリスベンの近くにあるアヴァターズアボード(Avatar’s Abode)である。ババは、1952年の4月にメヘルスピリチュアルセンターを発足した。1952年の5月24日にこのスピリチュアルセンターから、カリフォルニア州のオウハイ(Ojai)にあるメヘル山(Meher Mount)へ向かう途中で、ババが乗り合わせた車がオクラホマ州のプラグー(Prague)の近くで正面衝突した。ババと同乗していた人々は車から投げ出され、多くの負傷をした。ババの脚は酷く骨折し、鼻の骨折を伴った顔面に重傷も負った。負傷者たちは、ノースカロライナ州のダーラムのDuke病院で治療を受けた。ヨーポン砂丘(Youpon Dunes)で静養中に、エリザベス・パターソンの所有の土地で、ババはスーフィズム・リオリエンテッド(Sufism Reoriented)という名前をババによってつけられたスーフィーのグループを指導することになった。
メヘル・ババは、1953年の8月に、彼の主要な本である『God Speaks』を口述筆記させ始めた。この本は、創造とその目的を主要なテーマとしており、デヘラードゥーンでアルファベット板を用いて行った。1954年の9月にメヘル・ババはメヘラバッドで男性のみのサハヴァス(sahavas)を行った。この集会は後に『3つの信じられない週』として知られている。この頃に、ババは『メヘル・ババの』という宣言を発している。その中に、ババは『様々な疑念と確信が』他の人々には存在するにもかかわらず、自分がアヴァター(Avatar)であることを再度宣言した。このサハヴァスの終わりに、アメリカで編集し出版するために、二人のスーフィズム・リオリエンテッドのメンバーである、Ludwig H. DimpflとDon E. StevensにGod Speaksの完成した草稿を手渡した。その本は結果としてDodd, Mead and Companyによって、翌年に出版されることになった。
1954年9月30日に、ババは、『最終宣言』メッセージを発した。この中で、彼は様々な謎に満ちた予言を残している。
1954年の10月に、メヘル・ババは、アルファベット板を廃止し、独自の手を用いるジェスチャーを使用し始めた。その後は亡くなるまでこのジェスチャーを用いた。
1956年12月2日にインドのサーターラーの郊外で、ババが同乗していた車が制御不能となり、2度目の深刻な自動車事故が起こった。ババは、骨盤を骨折するなど、他にも重傷を負った。ババのマンダリの一人であるNilu博士は事故死した。この衝突によって、ババの体は酷く不自由になった。外科医たちの予想を覆して、大いに努力した結果、ババは再び歩けるようになったが、その時以来ババは常に痛みに苦しみ、動き回る能力が極めて制限されることになった。実際に1958年の西洋への旅の際には、所々で介添えが必要だった。
1956年に、彼が5回目にアメリカ合衆国を訪れた日にババはニューヨークのデルモニコホテル(Hotel Delmonico )に滞在した後に、サウスカロライナ州のマートルビーチのメヘル・センターへ向かった。7月には、ワシントンD.C.に旅をし、James Terry(Ivy)Duce夫人の家で友人や弟子たちを迎えた。Duce夫人は、アラビア・アメリカ石油会社の副会長の夫人であった。その後にババはカリフォルニア州のメヘル山に向かい、さらにオーストラリアへと旅を続けた。アメリカ合衆国とオーストラリアへの最後の訪問は1958年に行われた。
1960年代――晩年そして、ドラッグへのメッセージ
1962年にババは、最後の国際貢献の一つとして、東洋、西洋集合と呼ばれる集会を何回か行った。これらの集会では、西洋の信者とインド人の弟子たちが出会うように招かれていたが、肉体的痛みを押して何千人もの人々にババはダルシャン(darshan)を与えた。
1960年代の半ばに、ババは西洋のますます流行するドラッグ文化に関心を持つようになり、ティモシー・リアリーやRichard Alpertらの西洋の学識経験者たちと通信をし始めた。その中で、彼は霊的な目的で全ての幻覚剤を使用することに強く反対の意を示した。1966年に、ドラッグに関するババへの質問の返事が、『God in Pill?』というタイトルのパンフレットで公表された。メヘル・ババはドラッグを用いることは、霊的にダメージを与え、もし、悟りがドラッグによって可能なら、『神は、神に値しないことになる』と述べた。メヘル・ババは、西洋人の若い弟子たちに指導して、このメッセージを広めさせた。そのようにすることで、この時期に若者たちの間にメヘル・ババの教えに対する認識が増大した。Frederick Chapmanとの会見の中で、ババはLSDは『肉体的に、精神的に、霊的に有害である。』と述べ、『LSDの継続的使用は、狂気や死に導く。』と警告した。このFrederick Chapmanはハーバード大の卒業生で、フルブライト・プログラムで奨学された学者であり、インドで一年研究した際にババに出会ったことがある。
このような背景で反ドラッグのキャンペーンは、合衆国、ヨーロッパや、オーストラリアのババ・ラヴァーズによって始められた。このキャンペーンの大部分はうまくいかなかったけれども、それは新しい信者たちの波を生み出し、ババの考え方のいくらかが幻覚剤の利点や危険についての学術的論争に反映される形となった。
1962年の東洋と西洋の集合以降に、ババの健康は着実に悪化した。肉体の衰えにもかかわらず、ババは、長い期間に渡って独居や断食を行い続けた。1968年7月の後半の特に過酷な独居の時期を完遂した後に、この時までにババの仕事を『100%以上の満足で完成した』と述べている。この時期は、ババは車椅子を用いていた。2,3ヶ月の間に彼の症状は悪化し、床に伏すようになった。彼の肉体は強い筋肉痙攣によって痛み、その原因は医学的には不明だった。数名の医師たちの手当にもかかわらず、痙攣はますます悪化した。
1969年1月31日に、ババは、メヘラバッドの自宅で息を引き取った。彼は、最後のジェスチャーで次のように伝えた。『私が、神であることを忘れてはならない。』と。当時、ババの熱心な信者たちは、彼の死の記念日をhis death Amartithi(deathless day)「死のない日」と呼んだ。ババの体は、メヘラバッドのに威儀堂々と安置された。バラで飾られ、氷で冷やされ、最後の埋葬まで一週間に渡って、大衆にお別れの機会が与えられた。ババの死の前に、メヘル・ババはプーナで行われる予定であった大衆に向けたダルシャンの企画に向けて熱心に準備していた。マンダリたちは、ホストが肉体では存在しないにもかかわらず計画通りに実行する決心をした。数千人の人々がこの最後のダルシャンに訪れ、合衆国、ヨーロッパ、オーストラリアからも何百という人々が献花した。
沈黙
1925年7月10日から、1969年の死までメヘル・ババは、沈黙を守った。最初は、アルファベット板を用いてコミュニケーションを始めたが、後になってユニークな手のジェスチャーで意志を疎通した。その手振りを解釈し、言葉にできたのはマンダリの中でもただ一人だけだった。それは、ババの弟子Eruch Jessawalaだった。メヘル・ババは、自分の沈黙は霊的な鍛錬として理解されるべきではなく、唯一ユニバーサルワークに関係して理解されるべきだと述べた。
『人間が神の言葉に沿って生きることができないので、アヴァターの教えは嘲りの対象になりつつある。ババが教えた共感を実践する代わりに、人は彼の名前で戦争を始める。謙虚や、純粋さや、ババの言葉の真理を生きる代わりに人は憎しみや、強欲や、暴力に道を譲る。人は過去に神によって示された原理や教説に耳を貸してこなかったので、この現在の私のアヴァターとしての姿では、私は沈黙を守るしかない。』
メヘル・ババは、その言葉を全ての人の心(=heart)に語ることによって、全ての生きとし生けるものを霊的に進歩向上させるようにババが沈黙を破る瞬間がいつかについてシグナルを送ることがよくあった。
『私が沈黙を破る時に、私の愛の衝撃が普遍的なものであり、被造界の全ての生命がそれを理解し、感じ、受け取ることになる。その言葉は、全ての個人が、自分のやり方で自分自身の束縛から自由になる手助けができるようになるだろう。私は、君が自分を愛しているよりももっと深く君を愛している最愛のものだ。私の沈黙破りは、君が自分自身の大我を知ることによって自分を理解する役に立つであろう。』
メヘル・ババの沈黙破りは、この世の霊的進歩の画期的な出来事になるだろう。
『私がその言葉を話す時に、次の700年間に起こる予定の物事の基礎を形成するつもりである。』
多くの場合、メヘル・ババは死ぬ前に耳に聞こえる言葉によって沈黙を破ると約束した。そして、沈黙破りが起こる時に、特定の時と場所を告げることがあった。しかし、全ての現代に残された記事によればメヘル・ババは死ぬまで沈黙したままであった。彼が沈黙を破らなかったのは、信者のうちのあるものを失望させたし、他の信者はこの約束破りは彼らの信仰のテストとみなしている。信者の中には、『その言葉は、未だに話されていない』とい考えるものもいるし、メヘル・ババは、実際に沈黙を破ったが、物理的にではなく精神において破ったのだと考える人もいる。
何年にも渡って、ババは信者たちに7月10日は、沈黙を始めた記念の日であるので、沈黙や断食や、祈りを厳格に守るように求めていた。1968年の最後の沈黙の日の信者たちへの要求は、沈黙を守ることだけであった。ババの信者の多くは、彼を尊敬して沈黙を守ることによって、沈黙を祝福し続けている。
教え
メヘル・ババの教えは、大きく二つのカテゴリーに分けることができる。魂の性質や、宇宙の性質に関する形而上学と、霊的求道者への実際的アドバイスである。二つは相互に関係し合っている。ババの形而上学は、God Speaksという主要な本の中にほとんど書いてある。その本は、魂の進歩についてと同様に、ババの宇宙観についての詳しい説明と、人生の目的についての説明を含んでいる。一方で、実際的な霊的生活の詳しい説明も、ほとんど講話集には含まれている。講話集には、God Speaksを鏡で映したり、拡大したような形而上学的部分がある。
God Speaks
God Speaksにおいて、メヘル・ババは、無意識の神の本来の状態から、意識のある神への究極的到達への魂の旅を描いている。全ての旅は、想像の旅である。その旅では、神の本来の分離不可能の状態が、数限りない個別化された魂になることを想像する。個別化された魂を、ババは無限の大洋の内部の泡に例えている。それぞれの魂が、自分が何か意識したいという欲望によって力を得て、意識の最も基本的形態の中でその旅を始める。この制限は、その形態をますます意識のある状態へ向かって進歩させるためにより進化した形態を必要とする。意識は、それぞれの形態が収集できる印象と関係して成長する。
ババによれば、それぞれの魂は、進化することによって意識的な神性を追求する。即ち、7つの段階つまり、石、金属、野菜、虫、鳥、動物、そして人間を経過して、想像した形態の連続の中に、魂それ自身を表現するのである。魂はそれ自身を進化の中で連続する形態と自己同一化している。そのようにして幻影の連続は続くのである。この形態の進化の中で、思考も増大し、遂には、人間の形態で思考は無限となる。人間の形態をとっている魂は、意識のある神と成ることができるが、その魂が進化の間に収集した全ての印象は幻影であり、魂が自分自身を理解するのを妨げる障壁を生み出している。この障壁を克服するためには、人間の形態で何回も生まれることが必要とされ、それは輪廻転生と名付けられている。
遂には魂があるステージに到達する。そのステージでは、以前に収集した印象が薄くなったり厚くなったりするので魂は退縮と呼ばれる最終段階に入る。このステージに入るためにも、何回もの生死が必要となる。その転生の間に、魂は、心の内側の旅を始める。その旅によって、魂は、神としての真の同一性を理解する。ババは、この内面の神実現への旅を彼が諸平面と呼ぶ7つの段階に分けている。この全プロセスは、神実現へ向かう第7段階へと上り詰めていく。この第7段階で個々の魂にとって人生のゴールが到達される。
Discourses(メヘル・ババ講話集)
メヘル・ババ講話集は、霊的求道者の進歩に関係する沢山のトピックスについてメヘル・ババが与えた説明や解説の集大成である。取り扱われている最も重要なトピックの幾つかは、sanskaras(精神における印象)、Maya(幻影の原理)、エゴの性質、輪廻転生、カルマ、暴力と非-暴力、冥想、愛、弟子であること、神実現である。ババの説明は、インドの伝説や、Sufi文化の伝説から取られた物語を含んでいることが多い。一つのそのような物語は、賢者と幽霊であるように、迷信が人に及ぼす影響についてであり、もう一つのものはMajnunとLaylaのような物語で、人間同士の関係においても、無私の愛がどのように子弟関係のような純粋な無私の愛へ人を導くかを示している。
そのようにメヘル・ババは、人を神実現へ向かい続けさせる多くの示唆を与えてくれる。これらの示唆は、理論を実践へと導くものや、欲望を内面的に放棄するものや、人類やマスターに対して無私の奉仕を与えることや、自発性を含んでいる。一方で、人を幻影に縛りつける行動を避けることも含んでいる。しかし、モラルのルールを列挙するよりむしろ、ババは、ある行動は、その人の解放に導くのに、何故ある行動はその人を縛ってしまうのかに関して理解する糸口を与えてくれる。多くの章が、意識が、喜びと痛みや、善と悪のような対立する経験の間に囚われてしまうかについてのメカニズムをよく理解できるように説明し、それらを超越する道を指摘している。
パーフェクト・マスター達とアヴァター
常に地球上には56人の神実現した魂が存在し、これらの魂のうちの5人がこの時代の『5人のパーフェクト・マスター達』を形成するとババは語っている。5人のパーフェクト・マスターの一人が死ぬと、56人の中でもう一人の魂がその人の後を継ぐことで取って代わるとババは語っている。
ババによれば、アヴァターは、特別なパーフェクト・マスターで、神実現を他のどんな魂より先に実現した最初の御魂だ。この魂は、大本のパーフェクト・マスター、或いは古代からのマスターと呼ばれ決して地上に下生するのを止めない。ババは、この特別の御魂が神の状態の化身となる。そのような存在は、ヒンズー教では、Vishnuと呼ばれ、スーフィズムではParvardigar、つまり神の状態の維持者であり、保持者である。メヘル・ババによれば、アヴァターは700年~1400年毎に地上に降臨し、神実現へ向かう決して終わらない旅において被造界が進歩するプロセスを手助けするために時代のマスター5人によって、人間の形態へと“引き降ろされる。” ババは、他の時代においてこの役割は、ザラスシュトラ、ラーマ、クリシュナ、釈迦、キリスト、そしてムハンマドによって成就されたと語っている。
ババは『Avatarは人が自分は何者かを計り、自分が何者に成り得るのか計ることができるものさしである。』と表現した。彼は、人間の価値基準を神的な人間の人生の観点で解釈することによって『人間の価値の基準を正しいものにする。』のである。
メヘル・ババの信者のほとんどは、アヴァターだとババが述べたことを受け入れ、ババはこの時代のAvatarとして、神実現した存在として、世界中で何百万もの人々によって尊敬されていると言われる。
遺産
ババの旅と教えは、世界中に弟子や熱心な信者を残した。
アヴァター・メヘル・ババ慈善トラストは、1959年にメヘル・ババによって設立された。無料の学校や、薬局、白内障クリニック、獣医学病院と同様に、ババの聖廟や、巡礼者の施設も維持している。トラストは、ババが存命中に残した規約に従って運営されている。だが、グループ全体の霊的な権威としては機能していない。同様にトラストは、宣伝に従事したり教義やドグマを守ったり転宗を勧めたりしない。ババは布教を行うには消極的で、『自分は宣伝や、有名になることには全く興味がない。』むしろ彼は、信者たちに『自分の人生それ自身がババの愛と真理を伝える他人へのメッセージとなるような生き方をしなさい』と励ましている。そして、『できるだけ遠くに、できるだけ広く私のメッセージが広がるように』せよと言っているのだ。メヘル・ババの信者たちは、全く確立された儀式をもたない。多くの人々が、しかし、プージャやaartis(聖なるものや神々を賛える歌)、祈り、音楽、演劇、ババの映画を見ること等、自由に選んで実践している。信者たちの大切にしていることは、メヘル・ババが承認するであろう人生を生きることにあり、例えば、幻覚剤の使用や、マリファナの使用を差し控え、愛を持って神を憶う努力をすることだ。
ババの信者が集会を行うことは、一般には非公式である。Amartithi(称賛の集い)、ババの死の記念日、ババの誕生日に集合することも、大いに努力を必要とする。多くのババの信者は7月10日は沈黙を守る。存命中にババが信者に命じたことを遵守する。インドのババの霊廟では、朝と夕方にAartiが行われている。またメヘラバッドでは、毎月の12日にはdhuniの火を灯す実践を彼の信者は維持している。
ババは早くも1932年に時の著名人たちとの接触の結果、初めから大衆の注目を受けていた。更に、Paul Brunton(A Search in Secret India, 1934)のかなり幻滅した記事などから、ババは、西洋のポップカルチャーにおける様々な言及によって、死後も注目されている。
The WhoというグループのPete Townshendは、ババの信者となり、1969年のロック-オペラTommyをメヘル ババに捧げ、レコードの巻頭を飾った。The Whoの1971年の歌“Baba O’Riley”は部分的にメヘル ババにちなんで名付けられている。更に、Townshendは、メヘル ババに捧げた幾つかのアルバムを録音していて、その中には、Happy Birthday, I Am, Who Came First, 及び、With Loveが含まれている。1970年に、Melanie Safkaは、彼女の歌“Lay Down(Candles in the Rain)”の中で、“Meher Baba lives again.”という叙事詩を書いた。1988年のGrammy賞受賞曲“Don’t Worry, Be Happy”は沢山のババのポスターやインスピレーションに影響するカードに見られた人気のあるフレーズに影響されている。ババをモチーフにした名前をつけられていない人物像も、Meher Babaの哲学の概念同様に、漫画家のJ. M. DeMatteisの作品に頻繁に登場した。その中には、Doctor FateやSeekers Into The Mysteryも含んでいる。
2012年にフィーチャーされたフィルム、Nema Aviona za Zagrebでは、1967年に映像化されたメヘル ババとの独占的インタビューが入っていて、オランダで初公演された。そのインタビューの中で、ババは、神-実現と、薬物によるハルーシネーションの間にある相違点を説明し、ドキュメンタリー番組の中で、そのシーンは、中心的役割を演じている。