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リリーフ

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ブルペンで投球練習をするリリーフ投手。画像左外側にはブルペン捕手がいて投球を受けている

野球におけるリリーフrelief)、救援(きゅうえん)または継投(けいとう)とは、先発投手の降板後、他の投手登板すること。

リリーフを担う投手を日本では「リリーフ投手」や「救援投手」、アメリカ合衆国(以下アメリカ)では「リリーバー(reliever)」などと呼び、その役割によって特別な名称が用いられる場合もある(詳しくはこちらを参照)。

概要

リリーフ投手は、試合途中にブルペンで投球練習を行い、あらかじめ出番に備えたうえで登板する。チームによってベンチ入り登録されるリリーフ投手の人数は異なるが、日本プロ野球(以下NPB)の場合は6 - 8人ほどである。シーズンあたりの試合数が160試合以上になり、また原則として引き分けもないため長時間の試合になりやすいメジャーリーグベースボール(以下MLB)の場合は10人ほどがベンチ入りしている。先発投手が先発ローテーションに従い中4日以上の間隔を空けて登板するのに対し、リリーフ投手は数試合連続登板することも多い。

野球関係者の間では「投手の肩は消耗品」という考えが根強く存在しているが、特にリリーフ投手の場合はそれが顕著であるとされる。先述の通り、リリーフ投手は基本的に連日登板することが多い上、結果的に登板しなかった試合においても常に出番に備えておくことが求められることから場合によっては1試合に複数回の投球練習を行うため、実質的に相当数の投球を繰り返すこととなる。加えて、より緊迫した局面での登板によって心身の疲弊が積み重なることもあって、最終的に選手生命に関わる大きな故障を引き起こしてしまい、若くして現役引退を余儀なくされる選手や短い実働年数で衰えを見せる選手が少なくない。

加えて、元来リリーフ投手は規定投球回数を満たしにくいこともあり、その活躍度・貢献度を明確な数値として表すことは容易でなく、勝利数や奪三振数など伝統的に主要部門とされる投手記録では先発投手を上回ることが事実上不可能に近い。そのため、例えば日本では主に先発を務めていた投手が配置転換等でリリーフに回る際に「中継ぎ降格」などという表現される事もあるなど、リリーフを先発と比べて格下に見る傾向が根強い。

しかし「投手分業制」が確立された2000年代以降は、先発投手の完投が減少するに従って優秀なリリーフ投手の存在がチームの勝率に与える影響も大きくなっている他、後述するようにリリーフ投手を表彰する各種タイトルも制定されるようになるなど、リリーフ投手の貢献度を評価するための環境が整いつつある。
また、2010年代後半に入ると、日本の高校野球においても継投策を基本とした投手分業制による起用法が見られるようになり、特に、2019年夏ベスト4の中京学院大中京や、2022年夏優勝の仙台育英はいずれも「完投0」で大会を勝ち上がったことでも注目を集めた。

歴史

MLB

フィラデルフィア・フィリーズ監督のエディ・ソイアーは投手のジム・コンスタンティー1948年よりリリーフ専門で起用しはじめた。コンスタンティーは1950年に16勝7敗22セーブ、防御率2.66を記録する活躍を見せ、最優秀選手にも選ばれた。さらにフィリーズはこの年のナショナルリーグで優勝した。

こうしたリリーフ専門投手の登場により、MLBでは1960年に非公式ながら最も優秀な抑え投手を表彰するファイアマン賞が制定された。さらに1969年には最多セーブが公式タイトルに制定された。

1974年にはマイク・マーシャルが106試合登板・15勝21セーブの成績を残し、リリーフ投手として初めてサイ・ヤング賞を獲得した。

また、1976年にはローレイズ・リリーフマン賞2005年にはDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーという表彰がそれぞれ開始されていった。

1979年ニューヨーク・ヤンキースは7、8回にロン・デービスを、9回にリッチ・ゴセージを登板させる継投パターンを確立した。この年14勝を挙げたデービスはセットアップマンの先駆となり、1981年には中継ぎ投手として史上初めてMLBオールスターゲームに選出された。

1986年にはジョン・デュワンマイク・オドネルによってホールドという中継ぎ投手を評価するための指標が発明され、1999年から正式に集計が開始された。しかし、MLBの公式記録にはなっておらず、最多ホールドや最多ホールドポイントなどの公式表彰もされていない。

アメリカ野球殿堂入りを果たしているリリーフ投手は、1985年ホイト・ウィルヘルムを皮切りに、ローリー・フィンガーズ1992年)、デニス・エカーズリー2004年)、ブルース・スーター2006年)、リッチ・ゴセージ2008年)、トレバー・ホフマン2018年)、マリアノ・リベラ2019年)の7人である。また、通算300セーブを達成した投手のことを「300セーブクラブ」と称することがある。

NPB

NPBにおけるリリーフ投手の草分けは、1965年に20勝を挙げ「8時半の男」の異名をとった巨人の宮田征典(宮田の登板が大体この時間だったため)、同じく1965年に64試合に登板し、シーズンで挙げた18勝のうち17勝が救援勝利だった広島の龍憲一近藤貞雄が提唱した「投手分業制」を体現して1966年から2年連続でオールスターゲームに出場した中日の板東英二が挙げられる。

1970年代までは、多くのエース投手がセーブポイントが付く場面での登板もこなし馬車馬のように投げていた(安田猛新浦壽夫など)。一方で初期の代表的なリリーフ投手である南海ホークス佐藤道郎や、中日ドラゴンズ鈴木孝政といった投手は、谷間先発やロングリリーフなど「穴埋め」もこなしており、そのため最多セーブが先発投手につくことも、リリーフ投手が規定投球回数に達することもあった(NPBでは1974年に最多セーブが公式タイトルに制定されたが、こうした起用法もあり2004年まで最多セーブポイントに改定されていた)。1979年の日本シリーズ第7戦での投球が『江夏の21球』として書籍化された江夏豊は、この年に、抑え投手として初のシーズンMVPを受賞した。

1980年代にはロッテの倉持明が、“一打サヨナラ負け”の大ピンチを5度に亘って凌ぎ、「炎のストッパー」と評された。1985年には中西清起阪神タイガースの日本一に貢献、1988年には郭源治が抑え投手としては2人目のMVPを受賞。

1990年代には長嶋茂雄が勝ちパターンのリリーフ継投を「勝利の方程式」と命名して運用、1996年からは最優秀中継ぎ投手賞が制定された。この頃までは、救援投手が1試合に複数のイニングにまたがって登板する「イニングまたぎ」が少なくなかったが(2015年のインタビューにて与田剛が言及している)、近年では、イニングまたぎは批判の対象になることも少なくなく、「1イニング限定」及び「ワンポイント」が一般的になっていった。1998年、投手コーチを歴任した権藤博が監督を務め「中継ぎローテーション」ととも称される継投策を導入した横浜ベイスターズが日本一を達成、その中心的存在であり当時の流行語大賞にも選ばれた「ハマの大魔神」こと佐々木主浩が抑え投手として3人目となるMVP受賞。その後も佐々木のMLBにおける活躍が注目を集め、2003年には日本プロ野球名球会規則が改定される。通算250セーブ投手の入会が許可され、その時点で250セーブを達成していた佐々木(日米通算)と高津臣吾が入会した(2010年には岩瀬仁紀も入会)。

リリーフの地位も徐々に向上しつつあった中で、2005年に、阪神監督の岡田彰布が、1試合での球数や投球イニング、キャッチボールや登板間隔まで細かく管理するような、MLBに多く見られる継投策を導入して投手分業制を確立しリーグ優勝を果たした。その中心となった勝利の方程式「JFK」の3人(ジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之)は長きにわたり好成績を残し、他球団もそれに倣って投手分業制を推し進めたことにより、球界全体に投手分業制が浸透するに至った。2011年には中日の浅尾拓也が中継ぎ投手としては初のMVPを受賞している。

中継ぎを称える指標であるホールドは、2005年に現行の規定が導入されたため、まだ歴史が浅いが、2014年に山口鉄也が、2016年に宮西尚生が、2017年に浅尾拓也がそれぞれ通算200ホールドを達成した。

リリーフ投手の種類

抑え

試合の最終盤に味方がリードあるいは相手ときわめて伯仲している場面で、最後に投げる投手を「抑え(おさえ)」あるいは「クローザーcloserまたはclosing pitcher)」という。「ストッパー」(現在は英語では使われない)と言うこともある。また、打たれ出して上がった小火を大炎上(=大量失点)前に消し止めるという意味で「火消し」あるいは「ファイアマン(英:fireman=消防士の意)」と呼んだり、日本では自チームのリードを最後まで守り抜くという意味で「守護神」と呼ぶこともある。

通常は、延長に入っているかを問わず最終回で点差が3点までの状況において、1イニングもしくは裏の一死以後を投げ、相手チームに追いつかれずに試合を終了させる役割を負う。それまでは原則として先発や中継ぎが投げるが、試合展開によっては抑え投手がイニングまたぎで登板する場合もある。また、監督が先発に完投勝利を付けさせたい場合は出番がない事もある。相手の反撃を抑え、チームを勝利へ導くポジションである抑えはチーム内でもっとも信頼の高いリリーフ投手が任される役割である。

相手チームからランナーが出ている状態では、たとえ凡打であっても犠牲フライ進塁打などによって打点を許してしまえばリードを奪われる可能性がある。そのため抑えには奪三振率の高さが求められる事になる。

1試合あたりの出場イニング数が少ない一方、登板試合数が多くなりがちなため、スタミナよりも回復力と安定性、そして立ち上がりの良さが要求される。試合終盤には、例えば味方チームが8回裏に逆転したり、あるいは9回裏に追いつかれそうになるなどの緊急の起用をほぼ毎試合想定する必要がある。

チームの戦術によっては抑えの役割を1人に固定せず、2人以上の抑えを起用する場合がある。その場合は、登板間隔や相手打者が右か左かなどで誰が抑えを務めるかは変化し、日本では2人の場合は「ダブルストッパー(和製英語)」と呼び、アメリカでは2人以上の場合には「クローザーバイコミッティーcloser by committee=委員会によるクローザー)」と呼ぶ。

評価の指標には、登板数、防御率勝利数のほか、セーブが用いられる(かつてはセーブポイントという記録も存在した)。防御率に関しては、失点を許せない場面で起用されることが多いため、他の投手よりも低い数字が求められる。

中継ぎ

先発投手と抑えの投手の間を担当する投手を「中継ぎ(なかつぎ)」または、「ミドルリリーフピッチャー(middle relief pitcher)」と呼ぶ。抑えと違って味方がリードしている時だけでなく同点やリードされている場合にも登板する。特に実力のある中継ぎの事を「中継ぎエース」、「リリーフエース」と呼び、リードを許している時や勝ち負けに関係なく大量点差が開いた場面で登板する投手とは区別される。また、中継ぎでもシーズン10勝以上する選手も中にはおり、中継ぎでも大勝することでチームの精神面でも支えになるといわれる優位性もある。

評価の指標には登板数や防御率、勝利数のほか、ホールドホールドポイントが用いられる(かつてはリリーフポイントという記録も存在した)。

5年以上連続で「50試合以上登板、20ホールド以上」を達成した山口鉄也宮西尚生のような投手は貴重な存在といえる(なお、山口は2014年に、宮西は2016年にそれぞれ通算200ホールドを達成している)。

セットアッパー

試合終盤のリード時または同点時に原則登板する中継ぎを日本では特に「セットアッパー(和製英語)」、アメリカでは「セットアップピッチャー(setup pitcher)」または「セットアップマン(setup man)」と呼ぶ。文字の通り先発投手から抑え投手までの間を繋ぎ(主に8回を投げる投手を指す)、抑えと同等の力量を持つ投手が起用される。

ワンポイントリリーフ

打者1人ないし2人など限定した場面で登板する投手を「ワンポイントリリーフ(和製英語)」、「ショートリリーフ(short relief)」、または「スポットリリーバー(spot reliever)」と呼ぶ。特に“左打者は左投手を打ちにくい”とされるセオリーに基づいて、しばしばピンチのときに左打者を抑えるために起用される左投げのワンポイントリリーフを日本では「左殺し」「左キラー」「左のスペシャリスト」、アメリカでは「シチュエーショナルレフティ(situational lefty)」「レフトハンドスペシャリスト(left handed specialist)」「LOOGY(Left-handed One Out GuY)」などと呼ぶ。

NPBでこの役割の先駆けとなったのは1970年代後半から1980年代に西武などで活躍した永射保である。また、阪神の遠山奬志松井秀喜に対して勝負強く、「松井キラー」と呼ばれた。当時の監督・野村克也は遠山をすぐに降板させず、右打者に強い葛西稔をマウンドに上げて遠山を一塁手に回し、右打者を抑えた後に登場する左打者に対し再度遠山を投手、一塁手を葛西に、という変則的な戦法を用いた事がある。2000年代以後では、小林正人(中日)、星野智樹(西武など)が長きにわたり「左のワンポイント」として活躍した。 現在のNPBでは、高梨雄平森福允彦嘉弥真新也などが例として挙げられる。 「右のワンポイント」も存在し、木塚敦志加賀繁比嘉幹貴などが右打者へのワンポイントリリーフとして例に挙げられる。 なお、少数の打者と対峙することを主任務とするワンポイントリリーフの投球イニングは多くの場合1/3もしくは2/3イニングで、四死球安打などで出塁を許した場合には1アウトも取らない0/3イニングで降板することも珍しくない(ルール上、一旦登板したら最低1人の打者と勝負しなければ降板出来ないため)。後続のリリーフ投手が打たれ、出塁を許した走者が得点し負けた場合は敗戦投手となり、更に取られた点が自責点として加算され防御率が跳ね上がってしまう。一方、交代前の投手が出塁を許した走者が得点しても自責点としては記録されず、負けても敗戦投手にはならないため、ピンチの場面において活躍を期待されることの多いワンポイントリリーフを防御率や勝敗だけで評価することは難しい。1投球回辺り何人の走者を出したかの数値であるWHIPがワンポイントリリーフの評価に適している。

なお、メジャーリーグでは選手会との合意で、2020年以降は投手が「打者3人と対戦する」あるいは「そのイニングの3アウト目を取るまで投げる」ことを義務付けることとなり、ワンポイントの起用は困難となる。NPBではこのルールについて2020年シーズン終了後に検討していくと発表された。これに対する反響として、張本勲は2019年12月22日放送分の『サンデーモーニング』で「いいことです。左打者が出たら左投手が出て1人だけ投げてひっこむ?これは、いいことではないです」と評価した。一方、前述の通り「左のワンポイント」としてプレー経験のある遠山は、「いろんな個性が出てきて、それに魅了される人がいる。みんな同じではおもしろくないと思うんです」と述べ、戦術を狭めるのは野球の面白みを削ぐとして批判的に論じている。

ロングリリーフ・便利屋

先発投手が早い回で降板した場合などに登板し、概ね2〜3イニング以上を投げ続けるリリーフ投手を特に「ロングリリーフ」と呼ぶ。近年はいわゆる「イニングまたぎ」での起用が難しくなっている傾向にあることから、先発に対応できるほどのスタミナを持つ投手などがこの役割を担う傾向が強い。また、先発ローテーション投手が登板間隔調整などの理由でロングリリーフをすると「第二先発」と呼ばれる。ポストシーズンなどの短期決戦では先発投手が余るため、第二先発はよく用いられる。

また、チーム事情に応じて、先発とリリーフの両方に対応できる投手を「便利屋」と呼ぶことがある。主な投手として、牧田和久西村健太朗山井大介増井浩俊などが挙げられる。かつては大野豊佐々岡真司がこの役割に近く、通算記録として「100勝100セーブ」を上回っているほか、下柳剛(主としてダイエー、日本ハム時代)もこの役割を中心に息の長い現役生活を過ごした。木田優夫においては日本球界在籍4球団(巨人、オリックス、ヤクルト、日本ハム)でシーズン通して先発・リリーフでの登板を経験している。

敗戦処理

先発もしくは先に登板したリリーフが打ち込まれ、相手に大量のリードを許した時に登板するリリーフ投手のことを日本では「敗戦処理」、アメリカでは後始末をする清掃員という意味から「モップアップマン(mop up man)」と呼ぶ。

敗戦処理という言葉にも表れているように、ベンチが半ば試合をあきらめた場面で起用される。したがって、連日の起用によって登板過多になりやすい中継ぎや抑えを温存するため、やや格の落ちる投手が起用される。なお、このような投手は大量リードの試合でも同様の理由で使われることも多い。また、延長戦やダブルヘッダー後半などで投手を使い切ってしまった場合などでは、野手が起用されることもあり、2015年10月4日のマーリンズ対フィリーズではイチローが登板したのが例である。引き分け規定がなく勝敗が決まるまで深夜に及んでもプレーが続けられることもめずらしくないMLBでは、このようなケースはしばしば見受けられる。NPBでも2020年8月6日阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース読売ジャイアンツで阪神11点リードの8回裏1アウトから巨人の内野手増田大輝が登板した。(結果は0.2回3人1四球無失点)

プレッシャーの比較的かからない状態で投げることができるので、若手投手のテストの場としたり、故障明けや登板間隔の開いた投手を調整目的で登板させることもある。敗戦処理であっても好投すれば次回から先発や接戦での中継ぎに起用されるようになる場合もあり、幸い打線の援護を受けてチームが逆転すれば勝利投手に輝くこともある。

しかし千葉ロッテマリーンズなどで監督を経験したボビー・バレンタインは、敗戦処理を任されて打ちこまれた若手投手が自信を喪失してしまう可能性を考慮し、もっぱらベテラン投手に敗戦処理を任せていた(小宮山悟がその代表格であるが、小宮山は、接戦や同点の展開で起用されることも多かった)。

脚注

注釈

参考文献

  • 「特集 決めろ!勝利の方程式」『週刊ベースボール』第64巻第24号、ベースボール・マガジン社、2009年6月。 
  • 伊藤茂樹「アメリカ野球雑学概論」『週刊ベースボール』第65巻第54号、ベースボール・マガジン社、2009年11月、p.76。 
  • 「特集 最強ブルペン陣の醍醐味 喰らえ!必勝フルコース」『週刊ベースボール』第65巻第36号、ベースボール・マガジン社、2010年9月。 

関連項目

外部リンク


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