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反出生主義

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反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、はんしゅっせいしゅぎ)またはアンチナタリズム: antinatalism)とは、人々子供を持つことは不道徳だという信念哲学事典では、「反出生主義は極端に挑発的な観点であり、生殖を常時または通常許されないこととする」とされている。

哲学者の森岡正博によれば、この種の考え方は古今東西の哲学宗教文学において綿々と説かれてきた。とりわけ、アルトゥル・ショーペンハウアーエミール・シオランデイヴィッド・ベネターが反出生主義の擁護者として知られる。

出産行為は生まれてくる子供への暴力・親のエゴであるとし、この世に生まれることおよび子を持つことを否定的に価値づける倫理的見解。誰も産まないことが良いという価値観を普及させることで人類を段階的に絶滅させていき、それによって生きるという苦痛を味わうことも無くなり、全てが解決するという考え方である

概要

種類・名称

ひとくちに「反出生主義」と言っても複数の種類があり、1.「誕生否定」すなわち「人間が生まれてきたことを否定する思想」と、2.「出産否定」すなわち「人間を新たに生み出すことを否定する思想」の2種類に大別できる。1の「誕生否定」は更に、1-1.「自分が生まれてきたことを否定する思想」と、1-2.「人間が生まれてきたこと一般を否定する思想」の二種類に細分化できる。2の「出産否定」は、「生殖否定」「反生殖主義」「無生殖主義」 (: anti-procreationism) とも呼ばれる。

反出生主義(特に誕生否定)は、古今東西の哲学宗教文学において綿々と説かれてきた。ただし、それらをまとめて「反出生主義」と呼ぶようになったのは21世紀の哲学においてである。なお、日本語の「反出生主義」という訳語の初出は、2011年のウィキペディア日本語版である。

反出生主義は様々な観点から説かれるが、なかでも21世紀の哲学者デイヴィッド・ベネターは、倫理学上の「より善い」(better) と「より悪い」(worse) や「快苦の非対称性」の観点から、出産否定は倫理的な思想であるという結論を導き出し、全人類は出産をやめて段階的に絶滅するべきだと主張した。このベネターの主張は「誕生害悪論」「出生害悪論」とも呼ばれる。

哲学・倫理学

ショーペンハウアー

アルトゥル・ショーペンハウアーは、人生は苦しみの方が多いと主張し、最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだと主張する。ショーペンハウアーの哲学では、世界は生きる意志によって支配されている。盲目的で不合理な力、常に現れる本能的欲望が、それ自身によって懸命に生み出される。しかし、その性質ゆえに決して満たされないことが苦しみの原因である。存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補うことまではできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。倫理的な行動の本質は、同情と禁欲によって自分の欲望を克服することからなる生きる意志の否定である。一度我々が生きる意志を否定したなら、この地球上に人間を生み出すのは、余計で、無意味で、道徳的に非常に疑問のある行為である。

ザプフェ

ザプフェ(1899年 - 1990年)

ノルウェーの哲学者ピーター・ウェッセル・ザプフェは、子供は親・出生地・時代を選ぶ術がない点から、子供が同意なしに世界に生み出されることにも留意している。

ザブフェの哲学では、人間は生物学的な逆理である。意識が過剰に発達してしまったため他の動物のように正常に機能しなくなっている。知覚は我々が抱えられる以上に与えられている。我々はもっと生きたいと望むように進化したが、人間は死が運命づけられていることを認識できる唯一の種である。我々は幅広く過去から未来を予測することが可能だ。我々は正義と、世界の出来事に意味があることを期待する。これが意識を持った個体の人生が悲劇であることを保証している。我々は満足させることができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならないとしている。ザブフェは、人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要があるとした。

ベネター

デイヴィッド・ベネターは、ある主体Xが存在する場合と存在しない場合の2つのシナリオを比較するとき、主体Xが存在するシナリオにおける快楽と苦痛の存在と主体Xが存在しないシナリオにおけるそれらの不在の価値は非対称の関係にあると主張する。

ベネターによると、主体Xが存在する場合、

  • 主体Xに苦痛が存在することは「悪い」。
  • 主体Xに快楽が存在することは「善い」。

一方、主体Xが存在しない場合、

  • 主体Xに苦痛が存在しないことは「善い」(たとえ苦痛を不在にする方法がそれを経験する主体をつくらないことだとしても)。つまり、存在すれば苦痛を伴う人生を送ると予想される人がいて、その苦痛を不在にさせる方法がその人をつくらないことであったとしても、それは「善い」。
  • 主体Xに快楽が存在しないことは「悪くない」(この不在が剥奪にあたる主体が存在しない限り)。つまり、ある人が存在していてその人から快楽が奪われるのであればそれは「悪い」ことであるが、主体が存在しないから快楽が不在になっているのであればそれは「悪くない」。
主体Xが存在する 主体Xが存在しない
苦痛の存在(悪い) 苦痛の不在(善い)
快楽の存在(善い) 快楽の不在(悪くない)

なお、この議論における「善い」と「悪い」という用語は、あるシナリオにおける苦痛や快楽の存在(または不在)を、もう1つのシナリオにおけるそれらの不在(または存在)と比較したとき、そのシナリオにおける苦痛や快楽の存在(または不在)が「より善い」(better)とか「より悪い」(worse)ということを意味するのであって、苦痛や快楽の存在あるいは不在そのものの「善さ」や「悪さ」について述べているのではない。つまり、「善い」「悪くない」というのは、主体Xが存在していない場合の苦痛や快楽の不在はそれ自体では善くも悪くもない(neutral)が、主体Xが存在している場合のそれらの存在と比較したとき、それぞれについて「より善い」(better)あるいは「より悪くない」(not worse)という評価が下されるということを意味していることに注意する必要がある。

苦痛について、主体Xが存在する場合の「悪い」と存在しない場合の「善い」を比較すると、主体Xが存在しないシナリオに優位性がある。快楽について、主体Xが存在する場合の快楽の存在は「善い」であるが、主体Xが存在しない場合の快楽の不在は「悪くない」であり、これは主体Xが存在しない場合の快楽の不在が主体Xが存在する場合のその存在よりも悪くない(not worse)ということであるから、どちらのシナリオにも優位性がない。したがって、主体Xに何らかの苦痛が存在する限り、「存在しないほうが良い」という結論が導かれる。ベネターの誕生否定はこの「苦痛の主体」に沿って語られる。

ヴェターとナーベソン

ナーベソン(1936年 - )

現代倫理学の負の功利主義 では、幸福を最大限までに高めるよりも苦痛を最小限に抑えることの方がより倫理的に重要であるとされる。

ヘルマン・ヴェターが賛同したヤン・ナーベソン非対称仮説はこう主張する:

  1. 仮に子が生涯にわたって著しく幸福であることが保証されていても、その子供を出生させるべき倫理的責任は存在しない
  2. もし子が不幸になりうることを予想できるのであればその子供を出生させるべきではない倫理的責任が存在する

しかし、ヴェターはナーベソンのこの結論に賛同しなかった:

  1. 一般的には、子が不幸を経験すること、また、他者に不利益をもたらすことが予想されないのであれば、子供を出生させる、もしくはさせない義務は生じない

代わりに、彼はこの決定理論的テーブルを提示した:

子が幸福になる 子が不幸になる
子を出生させる 倫理的責任は生じない 倫理的責任は不履行
子を出生させない 倫理的責任は生じない 倫理的責任は履行される

そして、子供は生むべきではないと結論付けた:

”子を出生させない”ことが、同程度、もしくはより良い結果をもたらすため、”子を出生させる”ことよりも優位にあると考えられる。そのため子が不幸になる可能性を排除できない限り――これは不可能であるが――、前者はより好まれる。そのため、我々は(3)の代わりに、より踏み込んだ(3')――どのような場合でも、子供を産まないことが倫理的に好まれる――を結論とする。

その他

シオラン(1911年 - 1995年)
ジロー(1968年 - )
私が己を自負する唯一の理由は、20歳を迎える非常に早い段階で、人は子供を産むべきではないと悟ったからだ。結婚、家族、そしてすべての社会慣習に対する私の嫌悪感は、これに依る。自分の欠点を誰かに継承させること、自分が経験した同じ経験を誰かにさせること、自分よりも過酷かもしれない十字架の道に誰かを強制することは、犯罪だ。不幸と苦痛を継承する子に人生を与えることには同意できない。すべての親は無責任であり、殺人犯である。生殖は獣にのみ在るべきだ。 — エミール・シオラン 『カイエ』1957-1972, 1997

カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと――激痛、怪我、病気、死による苦しみ――を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。

ブルーノ・コンテスタビーレ (Bruno Contestabile) は、アーシュラ・K・ル=グウィンのSF小説『オメラスから歩み去る人々』を例として挙げている。この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。コンテスタビーレはこの短編と現実世界を対比する: オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する。コンテスタビーレは、反出生主義者は、そのような社会を受け入れず、関与することを拒む"オメラスから歩み去る人々"と同一視できると述べた。また、「万人の幸福はただ一人の甚大な苦しみを相殺できうるのか」という疑問を投げかけた。

哲学者のフリオ・カブレラは、出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始されるとし、カブレラは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくることを望んでいないかも知れないと主張している。同意の欠如については、哲学者のジェラルド・ハリソン (Gerald Harrison)とジュリア・タナー (Julia Tanner) も同様のことを書いている。彼らは生まれてくる本人の同意なしに出産をつうじて他人の人生に影響を与える道徳的な権利を我々は持っていないと主張している。

哲学者のテオフィル・ド・ジローは、世界中に何百万人もの孤児がいることに触れ、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを養子にする方が良いだろうと述べた。

宗教

グノーシス主義

グノーシス主義の主張が反出生主義の文脈から参照される場合がある。マニ教ボゴミル派カタリ派は生命とは魂(精神)が物質である肉体に「囚われた」状態であると解釈し、出生を否定的にとらえていた。

2世紀初期キリスト教神学者ユリウス・カッシアヌス (Julius Cassianus)と禁欲主義者たち(エンクラディス派)は、誕生が死の原因であるとし、 死を克服するため、我々は出産をやめるべきとした。

仏教

日本の仏教は鎌倉仏教運動以降末法無戒・肉食妻帯が一般化したため認識されにくいが、仏教はもともと非常に禁欲的な思想を持っていた。

仏教の開祖ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は出家前に子供(ラーフラ)をもっていたが、原始仏典のスッタニパータでは「子を持つなかれ」等と説いた。

パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と。 — スッタニパータ正田大観訳)

20世紀インドの著述家ハリ・シン・グールは著作『The Spirit of Buddhism』の中で、とりわけ四諦パーリ律の始まりを考慮し、以下のように述べた。

ブッダ曰く、人生が苦しみであることは忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。 — ハリ・シン・グール

反出生主義が描写される作品

文学

以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。

  • テオグニスソポクレス、『コヘレトの言葉』など、「生まれて来ないのが最善である」と説く古代の格言
  • 芥川龍之介河童』(1927年) - 河童の世界に迷い込んだ男を描く。河童の世界では出産前に母親の胎内にいる子供に父親が産まれたいかどうかを尋ね、産まれたくないと回答があった場合はその場で胎内に液体を注ぎ消滅させてしまう。人間の行う産児制限は「両親の都合ばかり考へてゐる」「手前勝手」と笑われている。著者の芥川自身における晩年の厭世的な思想が現れた作品としても知られる。哲学者の永井均は、反出生主義において悪さを構成している「『生まれる/生まれない』を実際には自分で選べないこと」に対して、選べる場合を想定した作品として本作を挙げている。
  • 太宰治斜陽』(1947年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と語る。

また、明示的に反出生主義を取り扱った文学作品としては、以下のようなものがある。

漫画・アニメ等の二次元作品

以下の作品は、反出生主義と関連づけて語られることがある。

  • ジョージ秋山アシュラ』(漫画、1970年 - 1971年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と叫ぶ。
  • ミュウツーの逆襲』(映画、1998年) - 遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義への疑問、承認欲求を抱いたことで、「誰が産めと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を産んだすべてを恨む」「だからこれは、攻撃でも、宣戦布告でもなく、わたしを生み出した者たちへの、逆襲だ」という反出生主義的な呪詛の言葉が知られている。ミュウツー自身も自分の存在意義に悩み、反出生主義思想を発露するが、自らもコピーポケモンを沢山産み出してしまう皮肉、オリジナル VS コピーの戦いを止めようとするサトシを見たミュウツーは人間という存在を見直した。更に、消されていたミュウ時代に「なぜいるのか(何故私は産まれたのか)」と問うた少女に「いるからいる」と言われた記憶も思い出し、自尊感情と存在肯定感を得たことで承認欲求が満たされ、自らを産み出し利用しようとした科学者やサカキら以外もいると知ったことで人間への価値観が変わり、逆襲を辞めると共に考えを変える流れが作品内で描写されている。本作に関して、『「反出生主義の作品ではないか」とネット上で話題になった』とした香山リカに対し、森岡正博は「反出生主義とは少し違うのではないか」「「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか」と返答している。
  • Seraphic Blue』(ゲーム、2004年) - フェジテ国全土を覆う怪物化の病「欠陥嬰児症候群」(ディスピス)により娘・アイシャを失ったクルスク一家が物語の黒幕。アイシャがディスピスにより史上最悪のイーヴル「イーヴル・ディザスティア」となりグラウンドを蹂躙した末、グラウンドの民に虐殺されるという結末を迎えたことで、父ジョシュア、母レオナ、兄ケインの3人は深い厭世観、生そのものへの憎しみを抱く。カオスを起こし惑星ガイアの生命を無に返すことで、生命を生まれなくすることが生まれ来る子供達への「愛」だと考え、ガイアを浸潤する存在「ガイアキャンサー」の実行者権限をエンデから強奪して世界の終焉を目論んだ。特に物語終盤のレオナ・クルスクとの戦いでは、子供の出産が「マイナスになるかもしれない人生というリスクを背負わせること」であり、自身の行為は「子供達に『ゼロ』という名のぬいぐるみをプレゼントする」ことだとレオナから語られている。
  • 諫山創進撃の巨人』(漫画、2009年 - 2021年) - ジーク・イェーガーによる「エルディア人安楽死計画」。エルディア人のジークは、自分たちの先祖である「ユミルの民」がはるか昔に行った民族浄化に対する罰として、マーレ政府から収容区での隔離生活を強制された。ジークは、自身に流れる王家の血に加え、始祖の巨人の能力を発動することによってユミルの民の人体の構造を変えることが可能であることを知ると、「全てのユミルの民から子どもが出来なくすることができる」と考える。彼が唯一心を許していたトム・クサヴァーも、自身がエルディア人であることを隠して結婚・出産をしたためにマーレ人の妻と子どもが自殺した過去を打ち明け、「自分たちは生まれなければ苦しむことはなかった」とジークに賛同を示す。 批評家の杉田俊介は、このような理路を「反出生主義の特殊なモード」「反出生主義を民族・人種的な特殊性を結びつけたもの」と指摘している。

批判

人間を生み出すことに対して肯定的な意見を持つ立場は出生主義と呼ばれる。医療科学、特に産婦人科学生殖補助医学では、妊娠出産が推進されていて、反出生主義に対立的である。

哲学・倫理学

比較哲学』におけるロバート・ザントベルヘンの論文によると、ベネターの理論のような反出生主義は、自らの根拠として親切心・倫理を挙げている。一方で先行研究では、反出生主義がダークトライアドパーソナリティ特性と──つまり精神病質(サイコパシー)および権謀術数主義(マキャヴェリアニズム)と──繋がっていることが発見されており、これは反出生主義への反論の一つになっていると同論文は述べる。

倫理学者の野崎泰伸の学術論文によれば、ベネターの哲学における反出生主義は発達障害ひきこもり文脈においても語られており、「生まれてこないほうがよかった」という意味で多くの賛意を得ている。同論文はこう述べている。

哲学的、あるいは倫理学的な問いかけについては、細心の注意を払わなければならないのではないか。「生まれてこないほうがよかった」と言うとき、誰かを傷つけたり不当に追い込んだりしていないか、考えてみるべきではないのか。

現実的に、ロングフル・ライフ〔不正な生命〕訴訟が提訴されているということを踏まえれば、「生まれてこないほうがよかった」を現実的に言ってしまいやすい立場にあるのは、いま生きづらさを抱えている当人であるということは予期できることである。

社会には「障害や生きづらさという、現にヒリヒリとその肉体や生存が焼き付くようなただなかを生きる者」を否定している面があり、反出生主義的な問いかけはそのような社会を無批判に反映している危険がある、という。

「生まれてきてよかった/生まれてこないほうがよかった」という主張のどちらも、「生きてそのようなことが主張ができるという特権」ではないのか。実際のところ、生まれていなければそのような議論ができるはずもない。

また、死んだ後のことも、生きている人々にとってはわからない以上、「生と死との比較」も不可能である。

私たちは、現に社会を生きている当事者であるというバイアスを有したなかでしか議論することはできない、このことを深く自覚しながら、研究を進めていかねばならないと感じる。

生殖補助医学・産婦人科学

高橋昌一郎は反出生主義を取り上げた上で、産科医夫律子の発言を引用している。夫律子は慶應義塾大学法学部の卒業後、徳島大学医学部を卒業して臨床研究を進めており、こう述べた。

ゆくゆくは、精密な「出生前診断」に加えて、「出生前治療」ができるようになるかもしれません。私たちが追求すべきなのは、「生まれてこないほうがよかった」という子どもを1人でも減らし、「生まれてきてよかった」という子どもを1人でも増やすことだと思います。

精神医学・心理学

社会精神医学・社会心理学的考察

精神科医の熊代亨は、反出生主義と類似している「親ガチャ」概念は先天的・遺伝的問題と後天的問題との両方を扱っていて、「毒親」よりも虚無主義的(ニヒリスティック)であるとしている。反出生主義でも親ガチャでも、道徳的問題を自分の代で断ち切るなら子供を作らないという考え方になり、そのような方向性の社会に「未来があるとは思えない」という。

香山リカは2020年に、ベネターの哲学書における反出生主義を論点とした上で

このところ反出生主義が注目されている理由のひとつには、社会や環境などの「外的要因の悪化」もある。だとするとなおのこと、それと夏以降の日本で起きている自殺者の増加とは連動しているとも考えられる。

と述べた。そして同氏は、コロナ禍でうつ状態になったり「もう生きていたくない」と訴えたりする人々の苦痛を少しでも緩和し、生きる意欲を回復できるよう全力で知識と経験をもって対応していくと述べている。もし反出生主義が「何かの本質」であるとしても、「『人生の中断もやむなし』などとは絶対に思わない」としている。同時に、微視的(ミクロ)な見方と巨視的(マクロ)な見方を併せ持って反出生主義の行方を追っていくつもりだという。

マウントサイナイ医科大学の精神科助教授である松木隆志が言うには、反出生主義や親ガチャといった概念の中には若者の絶望感があり、それはうつ状態によくある「学習性無力感」だと考えられる。精神安定のためには、「自己主体感」(主体的に意思決定行動をしている感覚)が特に重要とされる。心理療法でも、自分の感情思考・行動を無意識的に支配している外的要因や過去の体験を意識化することで、自己主体感の回復が目指されている、と同氏は言う。

心理学博士ロバート・J・キングは、心理学誌『サイコロジー・トゥデイ』にて「生きるのは良いことだ:反出生主義を真に受けるべきか?」(Good to Be Alive: Is anti-natalism to be taken seriously?)という記事を発表した。同氏はベネターの反出生主義の倫理を

この結果論的うぬぼれにおける最も浅はかなもの
(this shallowest of consequentialist conceits)

と呼び、

反出生主義者を自認している人々の中には、うつ病で苦しんでいる人々も居ると思う
(I think some of the people identifying as anti-natalists are suffering from depression)

と述べた。

臨床心理士の春井星乃は、「反出生主義の登場には、人類共通の『親子関係と子供の意識発達』の問題と、世界的な時代の流れの2つが関係している」と言う。まず子供の意識発達について春井はこう述べた。

さすがに「私は反出生主義です」と公言している方にお会いしたことはないけれど、「こんなに苦しいのなら生まれたくなかった」とずっと言っていた女性の患者さんはいましたね。 … 彼女の場合、母親との関係で作られた「生きている価値がない自分」という自己イメージや、母親の考え方で生きてしまっていることで、うつなどの症状が生じていました。 … 具体的な親の自分に対する態度や言葉を批判するよりも、産む産まないという議論の方が問題の本質に届かない表面的なものになるから、親も自分もそこまで傷つかずに済むということなのかもしれません。

春井が言うには、「子供は親を客観的に見て、否定するべきところは否定して、自己を育てて行かなければならない」。しかし親が神のように扱われているインドでは、子供の意識発達は「親不孝」であるため批判されてしまい、子供は打つ手がなくなる。そのような「親絶対主義」に対する精一杯の抵抗がインドの反出生主義である可能性はある。インドほどではないが、日本でも親絶対主義が無意識的圧力として存在し、先述のうつ病患者もそれに苦しんでいた。

次に春井は、脱近代主義(ポストモダニズム)と格差社会からの影響を挙げた。1970年代から思想界ではポストモダンな相対主義が主流になり、価値観は人それぞれでいい、人類共通の真実や価値など存在しないとされるようになった。人間には主体性など無く、ただ無意識のシステムに動かされているだけなので、「成長」は幻想に過ぎないとされる。また格差拡大によって生活苦の人が増加し、努力が以前よりも報われにくくなり、人生に希望を持てない人が増えた。

脚注

注釈

参考文献

倫理学・哲学

  • 野崎, 泰伸「非同一性問題と障害者」『現代生命哲学研究』第9巻、早稲田大学人間総合研究センター、2020年、27-41頁、NAID 120006994364 
  • 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?―生命の哲学へ!』筑摩書房〈筑摩選書〉、2020年。ISBN 978-4480017154 

関連書籍

関連項目

外部リンク


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