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大原麗子

大原麗子

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おおはら れいこ
大原 麗子
本名 飯塚 麗子
生年月日 (1946-11-13) 1946年11月13日
没年月日 (2009-08-03) 2009年8月3日(62歳没)
出生地 日本の旗 日本東京都文京区
血液型 AB型
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ演劇
活動期間 1964年 - 2009年
配偶者 渡瀬恒彦1973年 - 1978年
森進一1980年 - 1984年
主な作品
テレビドラマ
雑居時代
かげろうの家
たとえば、愛
離婚ともだち
のン姉ちゃん・200W
チロルの挽歌
春日局
徳川慶喜
映画
三匹の牝蜂
セカンド・ラブ
おはん

CM
サントリー
 
受賞
山路ふみ子映画賞
女優賞

1987年新・喜びも悲しみも幾歳月

大原 麗子(おおはら れいこ、1946年昭和21年〉11月13日 - 2009年平成21年〉8月3日)は、日本女優。本名:飯塚 麗子(いいづか れいこ)。身長157cm、B80cm、W56cm、H83cm(1975年5月)。

来歴

生い立ち - 女優へ

老舗和菓子屋の経営者を父として、東京都文京区で誕生。潤徳女子中学校北豊島高等学校卒業。

六本木野獣会に属し、大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ、芸能界入り。中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも端役で出演していたが、1964年昭和39年)、テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、翌年、東映へ入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演。同時期入社の城野ゆきと共に、東映東京の一押し新人女優として売り出され、1966年(昭和41年)高倉健主演のゴールデンウイーク映画『網走番外地 荒野の対決』で人気が出始めたことから、梅宮辰夫緑魔子コンビによる「夜の青春シリーズ」第7作『赤い夜光虫』で男優一押し新人・谷隼人とコンビで準主役に格上げされた。その後も「夜の青春シリーズ」をはじめ、高倉健の『網走番外地』シリーズ、千葉真一主演作品での助演等、数々の映画に出演したが、この時期の東映は"不良性感度映画"を推進していたため、大原の役は酒場ホステスパンスケ役が多かった。1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。ただ、1972年2月14日に東京プリンスホテルであった渡瀬恒彦との婚約発表を伝える『スポーツニッポン』1972年2月15日の記事に「東映の渡瀬恒彦と同じく東映女優の大原麗子」と書かれており、同席した岡田茂東映社長が「二人とも我が社の看板スターです。今後ともよろしく」と報道陣に話した。

以降テレビドラマを中心に一転して「しっとりとした日本的美人像」を演じ、映画『おはん』の魔性の女などさまざまな役を演じ分け、独特の存在感を発揮した。

その演技力を買われて主演した橋田壽賀子脚本の『春日局』では大河ドラマ歴代3位となる平均視聴率32.4%(ビデオリサーチ、関東地区調べ)を叩きだした。橋田をはじめ、石井ふく子からも演技力を高く評価されていた。

東映を退社してからの所属芸能事務所は長年「オフィス・アール」であったが、晩年には「ワンポイント」に属していた。

映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。

バラエティ番組・テレビCMへの出演

バラエティ番組への出演はさほど多くなかったものの、1994年(平成6年)5月19日放映の『ダウンタウンDX』(よみうりテレビ)では、本人たっての希望で、うさぎの着ぐるみを着たり、禿げかつらをつけてコントをしたり、さらに番組内の一コーナー「ダウンタウンの社会見学」ではセーラー服姿でダウンタウンの2人に同行した。

1996年4月15日フジテレビ系列で放送がスタートしたバラエティ番組『SMAP×SMAP』の名物コーナー「BISTRO SMAP」の第1回のゲストが大原であり、大原の死去から1週間後の2009年8月10日に、大原への追悼の意を込めて同回が再放送された。この時の映像は、のちに番組内でも幾度となく紹介された。

テレビCMへの出演も多く、とりわけ、和服姿でぷっと頬を膨らませ、かすれた声で甘えるように「すこし愛して、ながーく愛して」という台詞で知られる、サントリーレッドのCMは、その言葉どおり多くの人に長く愛され、1980年(昭和55年)から1990年(平成2年)まで放送された。歌手としても、数枚のレコードをリリースした。明石家さんま清水ミチコによく声真似をされた。

病歴

ギラン・バレー症候群

1975年に神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症。1999年11月から翌年にかけてギラン・バレー症候群が再発したとして芸能活動を休止した。その後、休止中にギラン・バレー症候群の主治医が亡くなった。

2008年11月には足元がふらついて自宅で転倒、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負った。この転倒は、同症候群の影響で身体のバランスを崩したものとされていたが、同じくギラン・バレー症候群を患った演出家の鴨下信一や専門医はこの病が再発することは滅多にないとして再発に懐疑的であり、大原の実弟も再発は姉の思い込みだったのではないかと否定的である。

その他手術と活動休止

さかのぼって47歳の時には乳がん手術を受けた。

1999年に左目の二重まぶたの整形手術をしたが手術は失敗し、まぶたが腫れ上がってしまったため、主演が決まっていた映画『天城越え』(第2作)を降板した。その後、再手術をして可能な限り元に戻したが、自宅に引きこもるようになった。同年11月、ギラン・バレー症候群が再発したこともあり、芸能活動を休止した。

大原の死後、弟・政光がテレビ番組で、「姉は左目のまぶたが一重で、メイクのとき自分で二重まぶたにしていた」と告白した。

晩年の生活

活動休止中も現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいたという。

晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていったが、俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたという。

2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語った。

死去

2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、自宅で死亡しているのが発見された。62歳だった。行政解剖の結果、死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断された。

8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、森光子石井ふく子浅丘ルリ子らが発起人となり、元夫である渡瀬恒彦森進一のほか、八千草薫池内淳子徳光和夫加藤和也堺正章井上順松原智恵子音無美紀子浅野ゆう子中村雅俊らが参列。大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かした。

また高倉健は、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたという。墓所は世田谷区の妙壽寺戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。

2011年7月、前田忠明著・大原政光監修のノンフィクション『大原麗子 炎のように』が出版された。

大原への追悼

かつて映画で共演した夏木陽介は、「話し相手になってあげればよかった…」と追悼のコメントを寄せた。

レイコの歯医者さん』『徳川慶喜』などで組んだ脚本家の田向正健は、死去に際して、「ユニークで、年齢というものをあまり感じない人だった。(…)最近はいわゆる俳優というものが日常のドラマからいなくなっている。日本を代表する女優の一人がまた消えたかという感じがする」とのコメントを出した。

人物

幼少時代・家族

  • 父(1903〜93)は、東京文京区の実家で老舗の和菓子屋「田月堂」を経営していた。
  • 母・俊子(1917〜2012)
    生涯を通じて麗子の心の支えだった。麗子が女優を目指したきっかけは、母に恩返しをして楽をさせたかったため。2人でよく旅行に行った。麗子は晩年まで母親のことを気にかけていた森進一との離婚後、父親を憎み、大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の飯塚姓にした。。
  • 弟・大原政光(1949〜)
    3歳年下。獨協大学卒業後、住友銀行に入社。その後三井銀行と合併して三井住友銀行となった後に同行を定年退職後、麗子の個人事務所の社長となる。それ以前より麗子のドライバーなどもしており、公私ともに麗子をもっとも良く知る人物の一人。

弟が生まれると母の愛情を独り占めしたい大原は、母の母乳を吸い始めた。母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けた。子供の頃、ケンカが強くて男みたいで、頼りがいがあったという。

幼い頃から父から暴力をふるわれ、父に殴られて鼻の骨の右側がやや盛り上がった。大原は女優になったあと、そこが目立たないように写真の撮られ方を気にしていた。8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚し、自身は母に引き取られ、弟は父に引き取られた。

両親の離婚後、東京・赤羽にある母の実家に母と戻った大原だったが、その後も自身は父と弟の住む家を毎週のように訪ねていた。一方、弟も大原と母の住む家を訪れ、弟が帰る時は3人で泣いていたという。大原は父子家庭だった弟とは異なり、母子家庭で育ったため生活は豊かではなかったが、母は大原に愛情を注ぎ、バレエ教室に通わせた。

脚本や演出へのこだわり

研究熱心な“演技の虫”であり、台本のセリフを自分なりに書き換えたりしていた。そのため脚本家演出家と口論することがしばしばあり、それが原因で関係者に敬遠されて仕事のオファーがなくなったこともある。

NHK大河ドラマ春日局』に主演したとき、春日局が臨終間際の徳川秀忠の正室、お江与と語り合うシーンで、橋田壽賀子作の脚本にはなかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを書き加えさせた。(大河ドラマ春日局・第37回「先立つ妻に」)

売れていき地位が上がるにつれ、映画やドラマのスタッフに対して脚本と演出の注文を付けるようになり、それが年を重ねるごとにエスカレートしたという。それが原因となり、一時はどこからも出演オファーがなかった。

死後、遺品の中には多くの台本があり、台本には場面ごとに細かく立ち位置がメモされ、セリフも自分なりに変更されていた。弟・政光は、「姉の夢は、監督・脚本から主演までをこなすことだったと思います」と述べている。また弟によれば、1998年に大河ドラマ『徳川慶喜』でナレーションに挑戦した後、宮﨑駿監督から声優のオファーを貰うも、「ごめんなさい。私は女優であって、声優ではありません。せっかくのお話ですが、お断りします」と返事をしたと言う。「自分はあくまで女優として生きたい」と言う信念があったからだと言う。

交友関係

高倉健とのエピソード

1965年に18歳で高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズで初共演をして以来、高倉を尊敬する兄として慕っていた。

『網走番外地 北海編』(1965年)など多くの作品で高倉健と共演している。

1986年に自宅を新築した時、高倉から新しい電話番号をプレゼントされ、電話番号の末尾4桁は「0015(レイコ)」となっていた。

高倉から万年筆をプレゼントされ、その万年筆には「0」から始まるシリアル番号が刻印されていた。「0」は高倉が所持していて、「1」は大原に贈られた。大原は「健さんに1番に選ばれた」と言ってとても喜んでいた。

1992年にNHKのテレビドラマ『チロルの挽歌』で主演・高倉健の妻役(ヒロイン)として高倉と共演。ギャラクシー賞奨励賞を受賞。大原はこの作品を「生涯の代表作」と自負していた。

後年大原が亡くなった日、大原の寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉と共演したテレビドラマ『チロルの挽歌』のDVDが入っていた。また大原の遺品の中から、高倉の記事だけをまとめたスクラップが発見された。そのスクラップには大きな文字で「好きです。尊敬しています」と書かれていた。

渡瀬・森との2度の夫婦生活

1970年(昭和45年)6月公開の『三匹の牝蜂』で初共演した俳優・渡瀬恒彦とすぐに意気投合し、1973年(昭和48年)9月に渡瀬と結婚したが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚。1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一と再婚したが、1984年(昭和59年)に破局に至った。森との結婚生活については離婚会見で「家庭に男が2人いた」と振り返った。

渡瀬と結婚していた頃、渡瀬の子供を身籠ったが、子宮外妊娠だったため胎児が死亡した。渡瀬と離婚したあとも、渡瀬のことが好きだったという。渡瀬との離婚の原因については、大原ははっきりとしたことを言っていない。

森と結婚していた頃、子供を欲しがっていた森に大原の弟・政光が「離婚して他の女性と子供を作ってください」と頼み、約一年後、森は大原との離婚を決意したという。なお、2019年に政光は、大原が結婚から2年たって森の子供を身籠ったが、仕事を優先させて堕胎したと告白した。

大原の死去後のお別れ会には森と渡瀬の元夫2人も出席した。

最後のテレビドラマ出演は、かつての夫である渡瀬との共演で、2004年の「十津川警部シリーズ」『東北新幹線「はやて」殺人事件』であった。

その他の仲の良い芸能人

森光子浅丘ルリ子(姉と慕っていた)。晩年は自宅療養中の孤独を癒すために、昼夜を問わず友人に長電話をかけており、大原の「お別れの会」では森は弔辞の中で「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べた。同じく浅丘も弔辞の中で、「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と述べた。

森や浅丘と親交があった美空ひばりにはデビュー当時から公私共に妹のように可愛がられていて互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合っていた。

鹿沼絵里とは、ドラマで共演してから仲良くなり、鹿沼の結婚式では大原麗子・森進一夫妻が媒酌人をした。親友であり、大原からマネージャーになってほしいと頼まれたこともある。

1999年の活動休止後も以前から親交のあった橋田壽賀子山下真司とは不定期ながらも連絡を取り合っていたという。

大谷直子とも仲がよかった。

「孤独死」との報道への反論

大原のデビュー当時からのマネージャーで公私ともに親しく、1999年から5か月の間、大原と同居し、死の前年の2008年まで親しく連絡を取り合っていた佐藤嘉余子は、大原の死去をあらわす際に「孤独死」という言葉がメディアで使われていることに疑問を呈し、『離婚を繰り返して、仲の良かった人々も離れていき、1人寂しく死んだと』いう見方について異なる見解を述べて反論している。

佐藤によると、大原が亡くなる6年ほど前に同居していた際に、大原の衣裳部屋の壁にスペイン人詩人であるサン・ファン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)の『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が貼ってあり、大原はその詩を彼女は毎日眺めていたという。

一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない
五つ 孤独な鳥はしずかに歌う — サン・ファン・デ・ラ・クルス

佐藤によると、この詩は大原の生き様そのもので、大原が亡くなる2年ほど前から、大原は「カヨさん、私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」と言うようになっており、大原は「孤独に追い込まれたのでなく、自ら『孤高』を選んだ」という見解を示している。

佐藤は、大原が亡くなる前年の11月大原が自宅で転倒したころから、急に連絡が途絶えたが、大原の死の直後、大原の自宅の冷蔵庫を開けるとお中元で送られてきたスイカの切れ端が2個半だけ残っており、それを見た際に、佐藤は寂しさや悲しさを感じる一方で、「ああ、麗子さんは天寿を全うしたんだな」とも思ったともいう。そして、「体力の限界を悟って、『スーッと消えていく』という願いを本当に実行しようとしていた。だから冷蔵庫の中に、もらいもののスイカ以外に自分で用意したような食料がなかったのだと思います。『孤高』を求めた麗子さんらしい旅立ちでした。」と語っている。

演出家のテリー伊藤は「日本で“小悪魔”が最も似合う女優。マスコミは孤独死って書いてるけど、彼女の実績をみてほしい」「いくつになっても小悪魔というのは、加賀まりこと大原さんの2人だけです」と大原の実績を強調し、孤独死との見方に反論している。

また、かとうかず子も「変な言い方ですが、とても女優さんらしい亡くなりかた」とし、さかもと未明は「森進一さんとの離婚で『男が2人いた』というのを (自分は子供ながらも) 仕事をするとはこういうことなんだなと感じた。輝いて大輪の花を咲かせて生ききった方だと思う」と大原を讃えている。

ケラリーノ・サンドロヴィッチも自身のブログで「20代後半に難病指定のギランバレエ症候郡〔ママ〕に侵されて以来、表には出さなかったが、常に死を意識していただろう大原さんの、30代の頃のいくつかのインタビューを見ると、彼女がとっくに覚悟を決めていたことがわかる。」とし、森進一との離婚以来「30年近く独り身を通したことからも、大原さんの、『ひとりで』女優という生き方をまっとうし病気と闘う生き方への美学が伝わってくるし、それは大原さん自身の選択だ」、「すべてを達成して満足の果てに死んでゆく人間なぞ滅多にいないのだとすれば、大原麗子さんの生き様は素晴らしかったに違いなく、あの最期は「理想的」とは言わないまでも、決して彼女にとって悲しむべき終わりではなかった」と思う、としている。

大原自身も自らの仕事への姿勢について、男はつらいよシリーズの出演作『男はつらいよ 寅次郎真実一路』の会見で「最近は遺作だなと思ってやってるの。いつ死んでもいいと。自分らしく自由に生きたい。仕事は限界のない自己闘争。心も体も自由に」と述べていた。

世田谷区の自宅について

森進一と離婚した2年後の1986年世田谷区岡本3丁目に150坪・床面積260平方メートル・3億円の豪邸を建て、68歳の母と一緒に暮らし始めた。この地に家を建てたのは、憧れの人物・高倉健の自宅に近かったからとのこと。子供の頃苦労して育ったため、働いて立派な家を建てることは長年の夢だったという。

仕事が少なくなったため住んでいた世田谷区の豪邸の維持費(固定資産税・年間89万円、光熱費・毎月数万円など)に苦しんだ大原は、貴金属を売って維持費をつくるようになった。

2009年3月頃、長年同居してきた介護が必要な91歳の母を介護施設に預け、一人暮らしを始めた。大原は自宅を売却してマンションへ引っ越すことを考えていたが、高額であるためなかなか買い手がみつからなかった。

大原が亡くなった後の2015年10月、弟が管理していた大原の豪邸が2億5千万円で売却された。高額であるため、大原の死後6年間買い手がなかった物件だった。売却された豪邸は2019年現在取り壊され、別の建物が建っている。

その他

麻雀好きで、徹夜で打つこともあった。

子供に恵まれなかったため弟の息子(甥)をとても可愛がり、甥が書いた絵を額に入れて飾っていた。甥と月に一、二回は一緒に食事をしていた。

出演

テレビドラマ

映画

舞台

CM

音楽作品

シングル

# 発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 規格 規格品番
ビクター・レコード
1 1968年
3月
A ピーコック・ベイビー 東大路千弘 小林亜星 EP SV-1012
B 顔を見ないで 山口あかり
ワーナー・パイオニア
2 1978年
4月
A さりげなく悪いやつ 小林和子 滝川光一 竜崎孝路 EP L-213
B 待つことになれて りりィ
パイオニアLDC
3 1996年
4月10日
A 背中から抱きしめて 秋元康 三木たかし 船山基紀 8cmCD PIDL-1179
B 逢いたくなるの

アルバム

発売日 アルバム 規格 規格品番
テイチクレコード
1972年6月 港の演歌※ 台詞のみ参加。 LP GW-6084
ワーナー・パイオニア
1978年3月25日 愛のつづれ織り LP L-11002R

大原麗子を演じた女優

脚注

注釈

関連項目

外部リンク


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