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車両の通行側
車両の通行側では、車両(自動車、自転車など)が道路を通行する際に右側通行か左側通行か、について記述する。
概要
車両は原則として道路中央よりも左側の部分を通行しなければならないとする左側通行と、この逆に車両は原則として道路中央よりも右側の部分を通行しなければならないとする右側通行とがある。
日本においては左側通行が採られ、道路交通法第17条第4項に「車両は、道路の中央から左の部分を通行しなければならない」と定められている。したがって、車両は原則として道路の中央から右の部分にその全部又は一部をはみ出して通行することができない。ただし、以下の例外がある(道路交通法第17条第5項)。
- 当該道路が一方通行の場合
- 当該道路の左側部分の幅員が当該車両の通行に十分でない場合
- 当該車両が道路上の何らかの障害(道路の損壊や道路工事など)のため当該道路の左側部分を通行することができない場合
- 法令上追越しのために右側部分にはみ出して通行することが禁止される場合を除いて、当該道路の左側部分の幅員が6メートルに満たない道路で他の車両を追い越そうとする場合
- 勾配の急な道路のまがりかど付近で道路標識等により通行の方法が指定されている場合において、当該車両が当該指定に従い通行する場合(なお、このような道路で通行方法を指定するために路面上に描かれる白矢印の標示は、「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」の別表において「右側通行」の標示として定められている)
歴史
日本では警視庁が1900年(明治33年)6月21日に道路取締規則を制定し、左側通行を初採用した。原案を作成した松井茂警視庁第二部長(交通警察責任者)は「特別な理由や研究に基づいたものではない。古来日本では武士が左腰に大小を差していたため...自然に左側を通る習慣がついたという説があり、また、明治22年制定の『人力車営業取締規則』では、車馬が行き合うときは、互いに左に避けることになっていたことなどを参考として...」などと述べている(『警察協会雑誌』大正13年6月号)。通行側採用の理由に明治政府が、イギリスの制度に範をとったためとする説は誤りである。左側通行制は、1920年(大正9年)12月、「内務省令第45号道路取締令」施行で全国的に行われることになった(警視庁編「警視庁史」、日本における道路交通法規の変遷「道路取締令」ほか)。
一方、ヨーロッパ大陸諸国においては、ローマ帝国の時代には左側通行が採用されていたという記録がある。その後の右側通行については、馬車の馭者は右手で鞭を振るうので、対向する馬車に鞭を当てないために自然と右側通行になったという説や、フランス革命の際に教会の定めていた左側通行に対抗して右側通行にし、その後、ナポレオンがヨーロッパ各地を占領していったことで普及したなどといった説がある。アメリカ合衆国の右側通行は、道路行政を担当した官僚が自分の出身地に合わせたという説や、独立によってイギリスの支配から脱した記念に転換したとする説などがある。しかし、どの説も決め手に欠け、なぜ左/右側通行になったのかはっきりとわかっていない。
各国の運用
右側通行を採用している国が多数になっている。人口比では左側通行と右側通行の比率が34:66で、道路の総延長距離では27.5:72.5になる。
一つの国の領内でも地域によって通行区分が異なる場合がある。中国返還後の香港(1997年~)や同じく中国返還後のマカオ(1999年~)を例としてまず挙げる(後述)が、ほかにも、アメリカ領ヴァージン諸島はアメリカ合衆国の領土でありながら左側通行である。また、イギリス領のジブラルタルは右側通行である。さらに、日本の沖縄県もかつては右側通行であった(後述)。
左右通行区分が異なるタイ(左側)とラオス(右側)を結ぶ橋は2基あるが、1基目の「タイ=ラオス友好橋」は左側通行であり、通行区分を逆転させるためにラオス側手前で上下線が平面交差によって入れ替わる構造になっている。一方、2基目の「第2タイ=ラオス友好橋」は右側通行であり、タイ側で上下線が平面交差によって入れ替わっている。
左側通行
- イギリスおよび一部を除く旧イギリス領。具体的には、 アイルランド、 香港など。
- 一部を除くイギリス連邦加盟国。具体的には、 マルタ、 キプロス、 ケニア、 南アフリカ共和国、 パキスタン、 インド、 マレーシア、 シンガポール、 ブルネイ、 オーストラリア、 ニュージーランド、 バハマ、 ジャマイカ、 ガイアナなど。
以上のように、イギリスの影響を受けた国や地域が多い。また、かつてオランダの植民地であった インドネシアと スリナム、かつてポルトガルの植民地であった モザンビーク、 東ティモール、および マカオは、本国が右側通行に変更した後も引き続き左側通行を維持している。
その他で左側通行を採用している国や地域は、 日本、 タイなどである。
右側通行
- 一部を除く北アメリカ州の諸国。具体的には、 カナダ、 アメリカ合衆国、 メキシコ、 コスタリカ、 パナマなど。
- ヨーロッパ州の諸国。具体的には、 ドイツ、 フランス、 スイス、 スペイン、 イタリアなど。
- かつてフランス領インドシナであったインドシナ三国( ベトナム、 ラオス、 カンボジア)。
- イスラエル、 サウジアラビア。
- ロシア、CIS諸国。
- ペルー、 ブラジル。
- モンゴル、朝鮮半島の2か国( 北朝鮮と 韓国)、 中華民国 中国(香港とマカオは除く)、 ミャンマーなどがある。
左ハンドルと右ハンドル
自動車のハンドル位置は通常、左側通行の国ではホイールローダーなどの建設機械を除いて右ハンドル車(運転席は進行方向右側)、右側通行の国では左ハンドル車(運転席は進行方向左側)が使用される。
すなわち、運転席の位置はそれぞれ道路の内側となる。これは車両すれ違い時の安全性や右左折時・追い越し時などの視界、対向車の確認のしやすさなどを考慮した結果であり、デファクトスタンダードともなっている。逆位置の自動車の登録や走行を認めないという法的規制がある国も多い。そのため外国に自動車を輸出する自動車メーカーは、同一車種について左右ハンドル両方の仕様を設計・製造することが一般的である。輸入中古車に対し車両改造業者でハンドル位置変更の改造が行われることもある(右写真参照)。
しかし例外的に、オールテレーンクレーンやホイールローダーなどの建設機械では、左折時の巻き込み事故や幅寄せ時の接触事故防止の観点から例外的に左ハンドルを採用している。また、左側通行時代のスウェーデンでは左ハンドル車が主流であった。
一部のマニアックな自動車好きは、外国車を輸入する際は、そのブランドの母国と同じハンドルの位置の車こそが「本物」であり、それを買うことがクールだと考えることがある。例えば日本人の自動車好きがドイツ車やフランス車を輸入する際は左ハンドル車を買うのが、逆にアメリカ人が日本車のスポーツカーを輸入する際は右ハンドル車を選ぶべきだという考え方である。後者はJDM(Japanese domestic market)と呼ばれる嗜好で、近年メディアを通じて日本でも知られるようになった。ただしこうした選択は、ドライブスルーや料金所などで不便を被ることになるという点を了承する必要がある。
右側通行の地域でも、左側通行の国から中古車を輸入したため右ハンドル車が多数存在するという例もある。例えば右側通行のロシア(特にウラル山脈から東の沿海地方や極東・ハバロフスク地方など)では日本から中古車を多数輸入しており、現地で右ハンドルのまま使用されている。また一部アジア諸国でも同様の現象があり、モンゴル、ミャンマー、北朝鮮、アフガニスタンといった国々がそれに該当する。ミャンマーでは、隣国のタイ(左側通行)から輸入した右ハンドルの中古車も多く見られ、走行する車の大部分は右ハンドル車である。なおアメリカ領ヴァージン諸島は左側通行であるが、大半の自動車はアメリカ本国仕様に準じた左ハンドル車である。
右側通行の国家・地域の郵便自動車(郵便配達専用自動車)で、あえて右ハンドル車を採用している所も存在する。これは、郵便物を道路沿いの郵便ポストに投函するにあたって、右ハンドル車であれば、運転手が運転席に居ながらにして済ませることができるからである。最もよく知られている例はアメリカの小型郵便自動車であるが、この国の場合、「なるべく外に出ないことが保安の観点からも良い」との理由付けも聞かれる。日々どれほどの数の投函をするのかを考えれば、一々降りて反対側に回り込んで戻ってを繰り返すのと運転席で万事済ませるのとでは、作業量でも保安の面でも大きな違いが出てくるというのは、容易に想像できることではある。当然、これに該当する地域(庶民の居住地域)では、郵便ポストの位置も道路沿いに配置するのが通例になっている。
左側通行であるオーストラリアのごみ収集車ではデュアル・コントロール(DUAL CONTROL)と呼ばれる両側運転台付きのトラックも存在しており、ごみ回収時はドライバーは左側に乗車し、歩道側に置かれているごみ箱を車内から自動サイドローダー(専用アーム)を操作して回収する。
右側通行の国の車でも「右ハンドルのみ」という場合が存在する。初期の自動車の多くは通行方式の左右に関係なく右ハンドルだった。これは当時の車は操作レバーがボディ横から伸びており、それを操作するのに都合がよいためである。右側通行の国で左ハンドル車が一般化するのはフォード・モデルTが登場する1908年からとなる。なおそれ以降も保守的な高級車は右ハンドルを堅持し続けていた。近年でも、イタリアのフェラーリ・250LM 、西ドイツ(当時)のポルシェ・935・モビーディック、アメリカのフォード・GT40は右ハンドルのみである。それらの車はル・マン24時間レースでの競技走行を念頭に置いて設計されており、レースのコースが時計回りであるため、右ハンドルの方が視界の上で有利となるからである。
ロシア・ウクライナ戦争では、ロシア軍の狙撃訓練が対左ハンドル車想定であることを逆手に取り、ウクライナ軍は右ハンドル車を重宝した。
車両の通行側の転換
車両の通行側は、20世紀初頭から第二次世界大戦前後にかけて主に左側通行から右側通行へ交通側の転換が行われたケースが各地で存在する。
- 1867年までイギリスの植民地であったカナダは、もともと自動車は左側通行であったが、アメリカ合衆国と陸続きであることから、1920年代に右側通行へと変更している。
- ポルトガルは、1928年に左側通行から右側通行に変更された。ただし、旧ポルトガル植民地であってもモザンビークや東ティモール、マカオは左側通行である。
- イギリスの海外領土であるジブラルタルでは、1929年6月16日に本国同様の左側通行から隣国スペインに合わせて右側通行へ変更された。詳しくは「ジブラルタルの交通#道路」を参照のこと。
- チェコスロバキアやハンガリーは、1930年から1940年代にかけて左側通行から右側通行に変更している。
- オーストリアは、1938年のナチス・ドイツによる独墺併合(アンシュルス)を機に、左側通行からドイツ同様の右側通行に変更した。
- 中国本土では、上海などのイギリス租界や日本租界、関東州(大連)といった日本の租借地、また、満州国も左側通行であったが、1949年の中華人民共和国成立後は、全土が右側通行に変更・統一されている。ただし、香港およびマカオは中国に返還された後も従来でどおり左側通行を維持している。
- 台湾、パラオ、フィリピン、朝鮮半島の2か国(北朝鮮と韓国)などは、日本に統治されていた時代は日本式の左側通行であったが、第二次世界大戦後、右側通行に変更している。
- ミャンマーは、旧宗主国であるイギリスからの制度である左側通行を1970年に右側通行に変更した。ミャンマーの場合、国境線は右側通行の国(中国、ラオス)と左側通行の国(タイ、インド、バングラデシュ)の両方と接しているが、左側通行の国とのほうが遙かに距離が長く通行量も多いため、右側通行に変更するメリットは少ない。変更の理由は、ミャンマー政府がイギリス式を嫌ったためとも指導者が占い師による助言を受け入れたためともされている。しかし、前述のとおり、走行している車の大多数は右ハンドル車である。
- 右側通行から左側通行への転換は、ナミビアとナウル(共に1918年)、サモア(2009年)、また、日本本土復帰後6年目の沖縄県の例(後述)がある。
自動車が普及し、交通インフラが整備された国家・地域での左右交通区分の転換は、住民への周知徹底、信号機や道路標識の全面的変更、道路の構造変更、乗車扉を変更するためのバスの更新など、多大な費用と事故の危険が伴うため、非常に稀である。それでも、20世紀後期以降は以下のような例がある。
- 1967年9月3日に、スウェーデンで自動車の通行区分が左側通行から右側通行へ転換された。これをダゲン・Hという。
- 日本の沖縄県は第二次世界大戦後にアメリカ軍の統治下に置かれ、左側通行から右側通行に変更されていた。1972年に日本復帰を果たした後、1978年7月30日、日本本土に合わせてアメリカ統治以前の左側通行に戻した。これを「730(ななさんまる)」という。また、アメリカは沖縄を日本に返還した後も自軍の基地を在日米軍基地という形で残したが、在日米軍基地はアメリカ領ではなく歴とした日本領であるため、基地内の交通は、所属国日本に合わせて左側通行を採用している。つまり、沖縄自体の変更に合わせて変更された。
- サモアは2009年9月7日、自動車の通行区分を従来の右側通行から左側通行に変更した。これは同国の自動車普及において、左側通行のオーストラリアやニュージーランドが地理的に近いため、それらの国から右ハンドルの中古車を輸入することが低コストになるということが大きな理由とされる。
沖縄返還後の沖縄本島にある在日米軍基地「キャンプ・フォスター」の敷地内道路。所属国日本に合わせて、基地内であっても左側通行である。2013年に撮影か。
脚注
注釈
参考文献
- 書籍
- 小林彰太郎 編『天皇の御料車』二玄社〈別冊カーグラフィック〉、1993年1月1日。ASIN B007WI4BQC。
-
警視廳(警視庁)、東京府 編『警視廳東京府公報』警視廳(警視庁)、東京府、1898年(明治31年)10月1日~1943年(昭和18年)6月29日。https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000016451-00。 。全国書誌番号:00016561。
- 『警視廳東京府公報 明治33年綴』
関連文献
- 石井研堂『明治事物起原』橋南堂、1908年(明治41年)1月。doi:10.11501/898142。