Мы используем файлы cookie.
Продолжая использовать сайт, вы даете свое согласие на работу с этими файлами.

SL-1

Подписчиков: 0, рейтинг: 0

SL-1(静止型低出力原子炉1号、: Stationary Low-Power Reactor Number One)は、アメリカ陸軍の実験用原子炉

1961年1月3日に原子炉の制御棒の不適切な引き抜きによる蒸気爆発とメルトダウンを起こし、3人の運転員が死亡する事故が発生した。この事故はアメリカ国内において唯一、即死者を出した原子炉事故である。 事故は約80キュリー(3.0TBq)のヨウ素131を放出した。 アイダホ州東部の人里離れた高地の砂漠にあったため重大な事故にはならなかったが、約1,100キュリー(41 TBq)の核分裂生成物が大気中に放出された。

アイダホ州アイダホフォールズの西約40マイル(65 km)にある国立原子炉試験所(NRTS)にあるこの施設は、 陸軍原子力発電プログラムの一部であり、設計から建設にかけてはアルゴンヌ低出力発電炉(ALPR)と呼ばれていた。 この原子炉は北極圏において遠距離早期警戒線を構成するレーダーサイトなどの遠隔地の軍事施設に電力と熱を供給することを目的としていた。 設計電力は3MWだったが、事故の数か月前に4.7MWで運転するテストがいくつか実施された。

事故の際、出力はわずか4ミリ秒で20GW近くに達し、蒸気爆発を引き起こした。

設計

1954年から1955年まで、米陸軍は北極圏の遠隔地で運用可能な原子炉プラントを必要としていた。 原子炉は、陸軍のレーダー基地においてディーゼル発電機と暖房用ボイラーに代わるものとして期待されていた。これにより陸軍原子炉部門はアルゴンヌ国立研究所(ANL)と共同で原子炉プラントを設計した。陸軍が求めた性能は以下の通り。

  • すべての部品が空輸できること
  • 全ての部品を7.5 x 9 x 20フィート(2.3 m×2.7 m×6.1 m)、重量20,000ポンド(9,100 kg)にパッケージできること
  • 標準的な部品の使用
  • 最小限の人員と手間で建設できること
  • シンプルかつ信頼性があること
  • 北極の永久凍土地域に適応可能
  • 3年間連続運転できること

この原子炉は1957年7月から1958年7月までNRTSサイトで構築された。1958年8月11日に臨界に達し、10月24日に稼働、1958年12月2日に正式に供用された。この原子炉は3 MWの沸騰水型原子炉 (BWR)であり、93.20%に濃縮されたウラン燃料を使用した。 冷却水と減速材として軽水を使用する軽水炉だった。

完成した原子炉施設は実用化に向けた試験の他、オペレーターの訓練に使用され陸軍内のみならず海軍、空軍や原子力商船を運用していた民間船舶会社からも訓練生を受け入れていた。

原子炉の運転操作には2人のオペレーターで充分だったが、これに監督官が付くことになっており、計3人で運転された。

事故

1961年1月3日、年末年始の休暇が終わりSL-1では11日間の運転停止からの業務再開に向け準備を行っていた。

午後8時、陸軍の特技兵ジョン・A・バーンズ(22歳)とリチャード・リーロイ・マッキンリー(27歳)、海軍建設工兵隊の建設電気技師一等兵曹のリチャード・C・レッグ(26歳)が制御棒の調整作業に入った。 メンテナンスの手順では、メインの中央制御棒を人力で数インチ引き出して、駆動機構に再接続する必要があった。作業は作業員が原子炉の上蓋で行った。

午後9時1分頃、原子炉建屋の火災警報が作動し、9分後に6名の消防隊員が原子炉建屋に駆け付けた。外から見る限り建屋からわずかに蒸気が出ているだけで異常はなかった。彼らが装置の誤作動だと考えて建屋に入ると放射線警告灯が点灯していることに気が付いた。原子炉室へ続く階段を昇っていくと持っていた放射線検出器の数値が振り切れたので撤退した。

午後9時17分、保健物理学の専門家が到着した。 彼と消防士は、空気タンクとマスクを着用し、原子炉建屋の階段に近づいた。 階段を登り始めたとき、検出器は1時間あたり25 レントゲン (R / hr)を表示したので撤退した。 数分後、保健物理学の対応チームが到着した。1人の保健物理学者と2人の消防士が最大500 R /時のガンマ線を測定できる放射線計と全身防護服を着用したうえで階段を上ったところ、原子炉室に損傷を確認し、また放射線計のメーターが最大のスケールを示した。 午後10時30分頃に、サイトの運営責任者と主任保健物理学者が到着した。 彼らは午後10時45分頃に原子炉室に入り、水に浸された2人の重傷者を発見した。1人は明らかに死んでおり(バーンズ)、もう1人は息があった(マッキンリー)。 マッキンリーの回収が優先され五人の救出チームが一分間の制限時間で作業を行い、10時50分に救出したが彼は意識を取り戻さず、午後11時頃に頭部外傷で死亡した。彼の体は汚染されており、毎時約500Rを放出していた。 救助隊はレッグを見つけるべく原子炉室の中を捜索したが救助隊の安全が優先されたため一人当たりの活動制限時間があり、なかなか発見できなかった。レッグは午後11時38分頃に原子炉の遮蔽プラグの一つが股から肩にかけて垂直に突き抜けた状態で天井に磔になって死亡しているのが発見された。 1月4日の夜、二人ずつ計三組のチームが交替で作業に当って原子炉室からバーンズの遺体を運び出した。1月9日には10人が二人組に分かれて一回当たり65秒の制限時間のリレー方式でレッグの遺体を鍵竿で遮蔽プラグから引き剥がして回収した。

当時、このような原子炉の暴走現象は知られていなかったため、当初、科学者たちは事故の原因が化学的なものだと考えていた。しかし、遺体の金時計からは放射性の金198が、シガレットライターのネジからは銅64といった中性子による放射化元素が発見され、化学的な爆発ではなく原子炉の暴走がおきたことが確認された。

3人の遺体は鉛とコンクリートでできた密閉式の棺に入れられ埋葬されたが、放射線量の高い部位は切り取られて放射性廃棄物としてアイダホ砂漠に埋められた。

原因

事故の原因は、原子炉上蓋にいた作業員が中央制御棒を一気に引き抜いたためである。先述したように、メンテナンス手順では中央制御棒を人力で数インチ引き出して、駆動機構に再接続する必要があった。引き出す長さは約4インチ(10 cm)と定められていたが、事故時にはその約5倍に当たる約20インチ(51 cm)も引き出されていた。

これにより原子炉が即時に臨界状態となって暴走に至り、その熱で炉心の燃料棒が冷却水のなかで溶融蒸発した結果、暴走からごく短時間で水蒸気爆発が発生した。この水蒸気爆発によって炉心上部の冷却水がウォーターハンマーとして吹きあがり原子炉容器の上蓋を下から突き上げた。これにより蒸気や部品が噴出し作業員に外傷を負わせ、作業員の一人は遮蔽プラグの一つに貫かれた。原子炉自体も9フィート1インチ(2.77 m)跳び上がって天井に激突し、元の位置に落着した。

作業員がなぜ制御棒を引き抜いたかについては分かっておらず、作業ミスもしくは故意の自殺と考えられたが、模擬制御棒による検証実験や過去の事例から、制御棒が引き出し作業中に固着し、作業員が一気に引っ張ったことによる可能性が高いとされている。

その後

この事故を教訓に、以後の原子炉は一つの制御棒の引き抜きが致命的な過剰反応を起こさないよう、冗長性を持つように設計されるようになった。

事故後、SL-1は1961年から1962年にかけて撤去され、跡地はクリーンアップ作業が行われ計475人が作業に当たった。撤去された原子炉は、燃料を取り出して再処理工場へ送った後に、元の場所の北東約500メートルの地点の深さ8〜14フィート(2.4〜4.3 m)の掘削抗に埋められた。

SL-1は格納容器が設けられていない原子炉であったが、原子炉建屋が内部に放射能を閉じ込めたため、事故による周囲への汚染は比較的少量に留められた。

参考文献

関連項目


Новое сообщение