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ダンスホール
ダンスホール (Dance hall) とは、ダンスを楽しむための場所、またはその場所を提供する店舗をいう。ダンス教室やダンス練習場を兼ねたものもある。
アメリカ
歴史
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主なダンスホール
- サヴォイ・ボールルーム(en:Savoy Ballroom)
- ニューヨークには1926年から1958年まで約4000人収容のダンスホール「サヴォイ・ボールルーム」(Savoy Ballroom)が存在した。
フランス
歴史
主なダンスホール
-
ムーラン・ド・ラ・ギャレット
- モンマルトルにはアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらも絵画に描いた著名なダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」が存在した。建物は内装が一新されレストランとなっている。
中国
歴史
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主なダンスホール
日本
歴史
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営業ダンスホールとしては、1918年(大正7年)に花月園(現在の横浜市鶴見区)に開設されたダンスホールが最初である。その後、ダンスの流行と共にダンスホールは徐々に増加し、1933年(昭和8年)には全国で約50箇所まで増えた。
1925年(大正14年)6月、警視庁はダンスホール入場者の住所氏名職業記載の台帳作成など取り締まり、このころダンスが流行し、東京府にホールが56あった。
1928年(昭和3年)11月10日、警視庁はダンスホール取締令を実施し、18歳未満男女は入場禁止にした。
1934年(昭和9年)10月、警視庁はダンスホールへの未成年者、学生、生徒の出入を禁止する通牒を学校当局、府知事に発出。店に対して「学生さんは遠慮ください」との看板を出すように指導した。
1940年(昭和15年)10月31日、東京のダンスホールはこの日かぎりで閉鎖、各ホール超満員であった。
太平洋戦争開戦間際の1940年(昭和15年)にダンス禁止令が出され戦時中はダンスホールも閉鎖状態となった。
終戦後まもなく駐留軍兵士向けのダンスホールが開業したものの、一般の日本人は入ることができなかった。1950年(昭和25年)10月に埼玉県さいたま市に戦後初のボールルーム「ルーフ・ガーデン」がオープンすると、以降日本人専門のダンスホールが続々と開設されるようになった。しかし、風俗営業の増加とともにダンスホールとキャバレーの区別が曖昧になっていき、ダンスホールも規制の対象になった。東京都の条例でも1954年(昭和29年)にはダンスホールとキャバレーの区別がなくなったが、1959年(昭和34年)にはダンスホールとキャバレー・ナイトクラブの区別が復活している。昭和の時代には社交ダンスの流行などとともにダンスホールが全国に数多くあったが、近年では社交ダンス人口が減ったことでダンスホールも減少傾向にあり、東京都内にはダンスバンドが出演するダンスホールが1軒残るのみである。また、映画『Shall we ダンス?』のロケ地となった大阪市・梅田のダンスホール「ワールド」も2001年1月末に閉館している。
主なダンスホール
脚注
関連項目
- 社交ダンス
- 競技ダンス
- タクシーダンスホール
- 鈴蘭台西口駅 - 開業時は「鈴蘭ダンスホール前駅」という駅名だった。