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マイケル・ジャクソン
マイケル・ジャクソン ONM | |
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1988年、Bad World Tourにて
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基本情報 | |
出生名 | マイケル・ジョセフ・ジャクソン |
別名 | ジョー・ジャクソン |
生誕 | (1958-08-29) 1958年8月29日 |
出身地 | アメリカ合衆国 インディアナ州ゲーリー |
死没 | |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1967年 - 2009年 |
レーベル | |
配偶者 |
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著名な家族 |
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共同作業者 | ジャクソン5 |
公式サイト | The Official Michael Jackson Site |
マイケル・ジャクソン(Michael Jackson ONM、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国出身のシンガーソングライター、ダンサー。本名、マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson)。インディアナ州ゲーリー出身。「ポップの王様」と称されている。
ポピュラー音楽に多大なる影響を与えた人物の一人である。全世界総売上は4億枚を超え、史上最も売れた音楽家の一人。
これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回) を受賞。ギネス世界記録から「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている。
来歴
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーの貧しいアフリカ系家庭に生まれ、幼い頃から兄弟たちとともに音楽の才能を発揮。1970年代に兄弟グループ「ジャクソン5」の天才リードシンガーとして一世を風靡した。
ソロ活動を中心に据えた1980年代、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた三部作『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』で前人未到の成功を手にし、名実ともにポピュラー音楽界の頂点に立つ。
1990年代以降も『デンジャラス』『ヒストリー』といった大ヒット作を生み出し続けたが、一方で私生活や容姿に関するゴシップや数々のスキャンダルがメディアに取り沙汰されるようになり、心労による鎮痛剤や睡眠薬への依存に悩んだ。
2009年、大々的なカムバックとなるはずだったツアー「THIS IS IT」の実施を発表するも、公演開始1ヶ月前の6月25日、急性プロポフォール中毒により死去した。
生い立ち
1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街の家庭に五男として誕生する。
父ジョセフはクレーン操縦士、母キャサリンはデパートのパートタイム従業員として家計を支えていた。ジョセフは当時彼の実弟が始めたバンド「ファルコンズ」の一員として音楽活動もしており、音楽家として成功する夢を抱いていた。音楽好きな両親の影響で、マイケルは他の兄弟と共に音楽と接する機会の多い環境で育った。
マイケルの兄ジャッキー、ティト、ジャーメインはよく父のギターを隠れて演奏していたが、ある日、ティトが弦を一本切ってしまう。張り替える間もなくジョセフに見つかってしまい、いつものようにジョセフは暴力を振るおうとするが、ティトは「僕にだって弾けるんだ」と抵抗を示し必死に演奏してみせたという。これを見てなかなかの上手さに気づいたジョセフは、自身の音楽経験を生かして子どもたちに音楽を教えることを決意する。
こうして三人は音楽グループとしての活動を始め、リーダーであったジャーメインを筆頭に、地元での人気を獲得していった。
全米のアイドルに
1963年、兄弟のグループに加入。キャサリンがジョセフに「この子は歌えるのよ」と助言したことがきっかけであったという。
この頃グループは「ジャクソン5」と名乗るようになった。
1967年には、ニューヨークのアポロ・シアターへの進出を果たす。マイケルはそこでジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソンのパフォーマンスを見て学んだという。
1968年1月、スティールタウン・レコードからシングル「ビッグ・ボーイ」でデビュー。
この頃、ライブの前座でボビー・テイラーに出会う。ジャクソン5の素質を見出したボビーは、モータウン・レコードと契約させるべくジャクソン・ファミリーを無理矢理デトロイトに連れていく。それが功を奏し、同年7月にモータウンとの契約に成功する。
1969年10月、シングル「帰ってほしいの」でメジャーデビュー。全米チャートで1位を獲得した。可愛らしさ溢れるマイケルの歌声や、ベリー・ゴーディ・ジュニア率いるプロデューサー群による秀逸な楽曲群に加え、ダイアナ・ロスが発掘したという架空の設定も話題となり、グループは全米で人気を博すようになる。この頃からやっとジャクソン5と名乗るようになる。
1970年2月、シングル2作目の「ABC」がビートルズの「レット・イット・ビー」に代わり1位を獲得。その後、続く「小さな経験」と「アイル・ビー・ゼア」もチャートを制し、デビューから4曲連続で全米チャート1位を獲得するという偉業を成し遂げた。
1971年10月、シングル「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビュー。ソロでも堅調なヒットを重ね、1972年7月発表のシングル「ベン」は、ソロでは初となる全米チャート1位を獲得した。
しかしこの頃から次第に、ジャクソン5とモータウンの方向性の違いが少しずつ露呈し始める。同じモータウン所属のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが自身で作詞作曲からプロデュースまで手掛ける中、いつまでもアイドル路線を続けさせられている状況にメンバーやジョセフは強い不満を示すようになった。しかしモータウンは一貫して彼らに曲の自作を許可することはなく、その軋轢は次第に大きくなっていく。全米2位に輝いた74年の「ダンシング・マシーン」の成功を除いては、無理矢理なアイドル路線による人気低迷が否めず、彼らは移籍を決意することとなった。
アイドルからアーティストへ
1975年、エピック・レコードに移籍。移籍後は「ジャクソン5」の名前の使用継続が認められなかったため、グループは「ジャクソンズ」としてまた昔に使われていた名前を使うことになった。
ジャクソンズは1976年にアルバム『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン』をもって正式にデビューを飾るが、活動初期はモータウン時代同様自主プロデュースをすることが許されず、2作目『ゴーイン・プレイシズ〜青春のハイウェイ』まではギャンブル&ハフをプロデューサーに迎えて制作された。マイケルはこのことに再び強い不満を抱いており、特に2作目については「オージェイズの古い曲『ラヴ・トレイン』みたいで、必ずしも僕達のスタイルじゃない」「アイデンティティを失いつつあった」と当時の幻滅ぶりを明らかにしている。
初めてメンバーがプロデュースに関わったのは3作目の『デスティニー〜今夜はブギー・ナイト』で、このアルバムはR&Bチャートで3位を獲得するなど、前2作を大きく上回るヒットを記録した。マイケルとランディの作詞作曲によるカットシングル「シェイク・ユア・ボディ」も、全米チャートで7位まで上昇した。
同じく自主プロデュースの4作目『トライアンフ』も全米チャートトップ10入りを果たすなどヒットを記録し、批評家からも高い評価を受けた。特にマイケル自身のペンによる収録曲「キャン・ユー・フィール・イット」について、アンディ・ケルマンが「この曲の超自然的でスケールの大きなリズムは、単なるシングル曲という小さなスケールに収まらず、むしろ花火の演目のフィナーレ的だ」と絶賛するなど、ここにきてようやく作曲家やプロデューサーとしての彼らの力量が認められるようになった。
1978年、ミュージカル映画『ウィズ』でダイアナ・ロスと共演。この映画の制作現場で、その後3枚のアルバムを共に制作しマイケルの音楽人生を変えることになる音楽家、クインシー・ジョーンズと出会う。
同年、映画のサウンドトラックからのカットシングル「ユー・キャント・ウィン」でエピックからソロデビュー。
1979年6月、移籍後初のソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』を発表。家族やレーベルの反対を押し切ってそのままクインシーをプロデューサーとして迎え制作された本作は、70年代のディスコ・ブームやブラック・ミュージックの集大成ともいえる内容に仕上がり、全米で800万枚を売り上げるなど大ヒットを記録。批評家からも高い評価を受けた。また、ソロでは初の自作曲となる先行シングル「今夜はドント・ストップ」をはじめ、「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」の合計4シングルが全米チャートトップ10に入るという史上初の偉業を成し遂げた。
1981年3月、モータウンでの最後のアルバム『フォーエヴァー・マイケル』から「想い出の一日」がシングルカットされ、『オフ・ザ・ウォール』との相乗効果もあり全英1位を記録した。
1982年7月、映画『E.T.』に「サムワン・イン・ザ・ダーク」を提供。ストーリーブックのナレーションにも参加し、2年後にグラミー賞を受賞した。
世紀のモンスター・アルバム―『スリラー』
1982年12月、移籍後から2作目のソロ・アルバムとなる『スリラー』を発表。先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」がカットされた。
再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、推定約7000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。
本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残している。
1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した。
同年10月、シングル「セイ・セイ・セイ」を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなった。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。
1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。
同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』を発表。『スリラー』のヒットも影響して本作は成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムの発売に際して最後のコンサート・ツアー「ヴィクトリー・ツアー」も行われた。
同年末、ツアー終了を機にマイケルはジャクソンズを脱退した。
1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた。
1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」がオリジナル曲として披露された。
「キング・オブ・ポップ」の完成
1987年8月、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示した。最終的に本作の売上は多く見積もって3500万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米チャート1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げた。
同年9月、ソロ初のワールド・ツアー「バッド・ワールド・ツアー」を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こった。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになる。
1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。生涯で唯一の自伝の日本語版は田中康夫の翻訳で同年11月にCBSソニー出版から発売される。2009年に河出書房新社から再刊。
同年5月、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。
同年10月、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」や「リーヴ・ミー・アローン」などの楽曲が披露された。
1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制する。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになる。
1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表される。
1991年11月、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦した。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれた。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得した。マコーレー・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用された。
1992年2月、ガボンの名誉勲位であるメリット勲位が贈られる。1992年6月、2度目のワールド・ツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。
同年7月、シングル「ジャム」のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演。
1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率がマイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となった。
同年2月、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かした。
性的虐待訴訟と2度の結婚
1993年8月、ジョーダン・チャンドラーに性的虐待の訴訟を起こされる。これにより11月、開催中であった「デンジャラス・ワールド・ツアー」の中止を余儀なくされた。裁判ではジョーダンの父イヴァンによる恐喝があったことが明らかとなり、またジョーダンの証言にも多数の矛盾が発覚する。ところが、裁判が推定7年近くかかることや、マイケルが精神的に危険な状態にあったことなどにより、音楽活動への多大な影響を懸念してマイケル側は和解金を支払うことを選択した。ここで和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられることとなり、この問題は後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引いてしまった。
1994年5月、エルヴィス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーと結婚。
1995年6月、2枚組アルバム『ヒストリー:パスト、プレゼント・アンド・フューチャー:ブック1』を発表。1枚目が『HIStory Begins』と銘打たれたベスト盤、2枚目が『HIStory Continues』と呼ばれる未発表曲集という特異な構造を持つ本作では、全米に蔓延る社会問題の数々や、また93年の訴訟以降より強まることとなった世間からのバッシングに対するマイケルの怒りや悲愴が、これまでにないほど直接的に表現された。先行シングルとしては妹・ジャネットとのデュエット「スクリーム」がカットされ、そのショート・フィルムは「史上最も費用の使われたミュージック・ビデオ」としてギネス世界記録に認定された。同年8月にシングルカットされた「ユー・アー・ナット・アローン」は、全米チャートで初登場1位を記録するという前人未到の快挙を成し遂げ、こちらもギネス世界記録に認定された。環境問題を扱った10月発表のシングル「アース・ソング」は、アメリカでは受け入れられなかったにもかかわらず、イギリスでは自身最大のヒット曲となった。
1996年1月、リサと離婚。
同年9月、3度目のワールド・ツアー「ヒストリー・ワールド・ツアー」を開始。
同年10月、主演・製作総指揮・脚本を務めた短編映画『マイケル・ジャクソン 「ゴースト」』を公開。劇中では表題曲や「イズ・イット・スケアリー」などの新曲が披露された。映画はカンヌ国際映画祭にて上映された。
同年11月、デビー・ロウと結婚。
1997年5月、ジャクソン5としてロックの殿堂入りを果たす。
同月、リミックス盤『ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア:ヒストリー・イン・ザ・ミックス』を発表。前作『ヒストリー』収録曲のリミックス集に、新たな未発表曲が5曲加えられた形で発売された。ほとんどプロモーションは行われなかったにもかかわらず、リミックス盤としては史上最高となる600万枚の売上を記録した。
1999年6月、有志の友人たちと共にチャリティ・コンサート「マイケル・ジャクソン & フレンズ」を開催。収益金は赤十字社、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。
同月、デビー・ロウと離婚。
2001年3月、史上最年少でロックの殿堂入りを果たす。
同年9月、マイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズを開催。ジャクソン5の再結成が行われたほか、次のアルバムの先行シングルである「ユー・ロック・マイ・ワールド」も披露された。
ソニー戦争と2度目の裁判
2001年10月、生前最後のスタジオ盤となる『インヴィンシブル』を発表。本作では、ロドニー・ジャーキンスをはじめとした若手プロデューサーの起用で時流に乗りつつも、自身の声を主体としたバラードの制作により精力が注がれた。全米1位は獲得したものの、最終的な売上枚数は1000万足らずと従来の作品に比べて伸び悩んでしまったことで、1990年代後半に始まったソニー戦争と呼ばれるマイケルとソニーとの確執が表面化するようになる。
同月、アメリカ同時多発テロの被災者支援のため、ワシントンD.C.RFKスタジアムでチャリティコンサートを行う。新曲「ホワット・キャン・アイ・モア・ギブ」も披露され、約300万ドルの収益を集めた。
2002年4月、民主党全国委員会によるパーティーにて、「ヒール・ザ・ワールド」を含む3曲を披露。このコンサートが彼が踊った最後のコンサートとなった。
2003年11月、ベスト盤『ナンバー・ワンズ』を発売。先行シングルとして「ワン・モア・チャンス」がカットされた。
同月、ギャヴィン・アルヴィーゾへの性的虐待疑惑で逮捕される。1993年の訴訟とは違って今回は刑事裁判にかけられ、マイケル・ジャクソン裁判として全世界の注目を受けることとなる。
2004年11月、ボックスセット『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』を発表。往年の代表曲に数々の未発表音源を織り混ぜたCD4枚と、92年のブカレスト公演の模様を映したDVD1枚が収録された。
2005年6月、裁判のすべての起訴事実に関して無罪が言い渡される。
同年7月、ライブDVD『ライヴ・イン・ブカレスト』を発売。なお、内容は『マイケル・ジャクソン:アルティメット・コレクション』に収録されたものと同じものである。
2006年5月、訪日。無罪判決後初めて公の場に姿を表す。MTVジャパンのレジェンド・オブ・ミュージック・アワードを受賞した。この訪日の際に、フジテレビ系列のバラエティ番組『SMAP×SMAP』にサプライズゲストとして出演し、SMAPと共演。結果としてこれがマイケルにとって生涯唯一のバラエティ番組出演であり、同時にマイケルが日本のテレビ番組に出演した最初で最後の機会となった。
2008年2月、企画盤『スリラー25周年記念盤』を発売。『スリラー』収録曲のリミックスが収められ、エイコン、カニエ・ウェスト、ウィル・アイ・アム、ファーギーなどが参加した。
同年8月、生前最後となるベスト盤『キング・オブ・ポップ』を発売。このアルバムはマイケルの生誕50周年を記念して企画され、インターネット上で行われた投票で各国独自に収録曲が決められた。完全生産限定盤として発売され、全ての国のバージョンにボーナス・トラックとして「スリラー・メガミックス」が収録された。
2009年3月、ロンドンにて記者会見を開き、O2アリーナで最後のツアー『THIS IS IT』を行うと発表。チケットが売り出されると4時間で50公演分が完売した。
衝撃の死と広がる波紋
2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に陥り死去。主治医であったコンラッド・マーレーは過失致死罪の有罪判決を受けている。
2009年10月、予定されていたO2アリーナでの公演のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』が公開。翌年発売されたBlu-rayは日本のオリコンにおいては歴代4位の売上を記録している。
同年、Googleの検索ワードランキングで1位になった。
2010年6月25日、一周忌であるこの日にドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔』が公開。
2010年12月、死後初のスタジオ盤『MICHAEL』が発売。本作は、『スリラー』制作段階で収録候補となっていたイエロー・マジック・オーケストラの「ビハインド・ザ・マスク」のカバーをはじめ、生前に録音された10の未発表音源が集められた作品として注目を集めた。しかしプロモーションの時点から、一部の収録曲の歌唱に関して「マイケルによるものではないのではないか」という疑惑がプレスや家族からかけられることとなる。ソニーは一貫してその疑惑を否定してきたものの、2018年8月にようやく「『モンスター』『ブレイキング・ニュース』『キープ・ユア・ヘッド・アップ』の3曲が他の歌手によって歌われたものである」と正式に認めたことが報じられた。
2011年1月、ドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン ライフ・オブ・アイコン 想い出をあつめて』が公開。ホイットニー・ヒューストンなど生前の友人やマネージャー、アーティストたちがマイケルとの想い出を語っている。
11月、リミックス盤『イモータル』が発売。シルク・ドゥ・ソレイユによる同名のトリビュート・ツアーのサウンドトラック盤として発売された。
2012年9月、『バッド25周年記念盤』が発売。2012年版リマスターの施されたオリジナル盤の他、同時期に録音された未発表音源、最新リミックス、及び1988年のロンドン公演の模様を収めたDVD『ライヴ・アット・ウェンブリー』を同梱している。記念盤の発売に合わせて、スパイク・リー監督によるドキュメンタリー映画『BAD25』も公開された。
2014年5月、生前の未発表曲を集めたアルバム第2弾となる『エスケイプ』が発売。ビルボード・ミュージック・アワードでは「スレイヴ・トゥ・ザ・リズム」のホログラム・パフォーマンスが話題を呼んだ。8月、「ア・プレイス・ウィズ・ノーネーム」がシングルカットされ、ショート・フィルムはTwitterで先行公開された。
同年11月、クイーンのコンピレーション盤『クイーン・フォーエヴァー』にフレディ・マーキュリーとのデュエット曲「生命の証」が収録。
2019年3月3日、記事にて純資産が約5億ドルとなったと報道。
2022年11月18日に『スリラー40周年記念盤』が発売された。
Disc2には完全未発表デモ&レア音源を含む全10曲が収録され 『MICHAEL』に収録されたイエロー・マジック・オーケストラの「 ビハインド・ザ・マスク」のオリジナルデモ版や「スリラー」楽曲の原型となった『スターライト』などが収録された。
パフォーマンス
歌唱法
4オクターブもの音域を持つといわれるマイケル・ジャクソンは、その独特な歌声で人気を博してきた。
ジャクソン5時代から『オフ・ザ・ウォール』の頃までは声のよく通るソウルフルな歌唱法が見られるが、『スリラー』以後はよりポップやロック色が強まり、年を重ねるごとに深みを増していった。
彼はキャリアを通じて歌唱力を維持するための努力を欠かさなかった。2001年発表の楽曲「2000ワッツ」ではデジタル処理で声を加工したのではないか(実際は加工されていない)と囁かれたほど低い声で歌っていた一方で、同じアルバムに収録された「バタフライズ」では驚くほど柔らかなファルセットを披露するなど、その多彩なボーカルレンジは晩年まで健在であった。
ボイスパーカッションも得意としており、曲を思いついた時にはまずそれをテープレコーダーに録音していたという。マイケルは1993年のオプラ・ウィンフリー・ショーにて「フー・イズ・イット」をボイスパーカッションのみで披露しているほか、1995年発表の「タブロイド・ジャンキー」では曲の基本ビートとしてボイスパーカッションを導入している。
ダンス
- 「ビリー・ジーン」のパフォーマンスで必ず披露される「ムーンウォーク」をはじめ、爪先立ち、スピン、足で蹴る動きなど、マイケル・ジャクソンのダンスはフレッド・アステアなどに強い影響を受けており、キャリアを通じて彼を象徴する代名詞となっていった。
アステアについては「最も影響を受けた人物の1人」「幼い頃から真似をしていた」と発言している。また、アステアとマイケルは個人的に親交があり、80歳を超えた晩年のアステアに請われてマイケル自身がムーンウォークのレクチャーをしたこともある。 - 「スムーズ・クリミナル」の振付に登場する、体全体を斜め45度に傾くパフォーマンスは「無重力傾斜(アンチ・グラヴィティ・リーン)」と呼ばれ、それを行うのに必要な特殊な靴の開発において特許を取得している。
- パントマイマーとしても知られる。「パントマイムの神様」と称されるマルセル・マルソーは「マイケルは生まれながらのパントマイム・アーティストだ」と語っていたという。
ファッション
1986年の『キャプテンEO』以降、マイケルの衣装はマイケル・ブッシュとデニス・トンプキンスが担当している。ブッシュによると、マイケルは衣装が会場の最後尾の観客にも見えるよう考慮したため、衣装の多くはラインストーンで覆われたものにしていたという。ルーズソックスにもラインストーンが散りばめられていたが、ブッシュの高度な縫製技術をもってしてもマイケルの激しいパフォーマンスには耐えられず、コンサート終盤にはラインストーンが落ちてしまう。そのためブッシュは夜通し修復を行っていたという。
ゼロ・グラヴィティの特許を開発したのもブッシュである。仕掛けが成功したとき、マイケルは感動の涙を流したという。
ディスコグラフィ
キャリアを通して、音楽以外にも映画、アニメ、ゲーム、書籍などさまざまな作品の制作に関わっている。以下は、モータウン時代と死後のものを含むソロのスタジオ盤である。
- 『ガット・トゥ・ビー・ゼア』(1971年)
- 『ベンのテーマ』(1972年)
- 『ミュージック・アンド・ミー』(1973年)
- 『フォーエヴァー・マイケル』(1975年)
- 『オフ・ザ・ウォール』(1979年)
- 『スリラー』(1982年)
- 『バッド』(1987年)
- 『デンジャラス』(1991年)
- 『ヒストリー パスト、プレズント・アンド・フューチャー ブック1』(1995年)
- 『インヴィンシブル』(2001年)
- 『MICHAEL』(2010年)
- 『エスケイプ』(2014年)
公演
タイトル | 期間 | 公演回数 | 総観客 動員数 |
映像ソフト | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
バッド・ワールド・ツアー |
1987年9月12日 〜 1989年1月27日 |
15か国 123公演 |
440万人 | ライヴ・アット・ウェンブリー | 初のソロ・ツアー |
デンジャラス・ワールド・ツアー |
1992年6月27日 〜 1993年11月11日 |
69公演 | 320万人 | ライヴ・イン・ブカレスト | 性的虐待疑惑等による心労により中断 |
ヒストリー・ワールド・ツアー |
1996年9月7日 〜 1997年10月15日 |
35か国 82公演 |
450万人 | 未発売
(DVD発売用にミュンヘン公演の模様が記録されている) |
タイトル | 期間 | 公演回数 | 総観客 動員数 |
映像ソフト | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
マイケル・ジャクソン&フレンズ | 1999年 6月25、27日 |
2か国 2公演 |
未発売 | チャリティ・コンサート | |
30周年記念ソロ・イヤーズ | 2001年 9月7日、10日 |
アメリカ 2公演 |
未発売 | マイケルのソロ活動30周年記念コンサート | |
THIS IS IT | 2009年7月13日 〜 2010年3月6日 |
ロンドン 50公演 |
75万人 |
THIS IS IT |
マイケル本人の急死により中止 |
受賞・殿堂入り記録
これまでに350以上の賞を受賞している。またロックなどさまざまな分野で殿堂入りを果たしている。
人物
趣味
ゲーム好きとして知られる。自宅には大量のアーケードゲームを所有していた。日本メーカーのゲームは特にお気に入りで、中でも熱烈なセガのファンであったという彼は、彼自身を題材としたセガのゲーム「マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー」で監修を務めた。「スペースチャンネル5」では開発者に直接出演を依頼したという。また来日した際に、「ギャラクシーフォース」の大型筐体版をプレゼントされたという逸話や「Sega R-360」を購入したが自宅に入れるために自宅を改築した逸話もある。また、セガ社内を訪れたときに「パワードリフト」で中裕司と対戦し、中に負けたこともある。
自宅
生まれ育った実家は家庭が貧しかったこともあり、一軒家に家族11人で住んでいた。
1988年に推定3,800万ドルで建築したネバーランド・ランチ(通称 ネバーランド)は敷地面積が約2,700エーカー(1,092万平方メートル)に及び、遊園地、動物園、ゲームセンター、マンション、レコーディングスタジオなどが併設されており、敷地内を機関車が走っている。マイケルはこの豪邸を自分のためだけに使うのではなく、病気の子どもたちや貧しい子どもたちを招くなどチャリティにも使っていた。しかし晩年、彼がバンク・オブ・アメリカから2億7,000万ドル以上の負債を抱えていたことにより、ネバーランドは抵当に入ることとなる。2005年5月、ディストレス債権がバンカメからフォートレス・インベストメント・グループへ売却され、2008年5月、コロニー・キャピタルとマイケルの合弁会社シカモア・ヴァレー・ランチ・カンパニーに売却され、2014年8月、コロニー・キャピタルによる売却が決定した。
マイケルが息を引き取ったロサンゼルス・ホーンビーヒルズの豪邸は、敷地面積1,545坪のフランスのシャトー風の造りになっている。7つの寝室とトイレが13室、ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージには7台の車を収容することができるという。マイケルは家賃10万ドルで、子どもたちと一緒に住んでいた。マイケルの死後に2千数百万ドルで売りに出され、2012年に買い手がついた。
生前は他にも多数の豪邸を所持しており、死後5年が経った2014年現在もカリフォルニア州エンシノの豪邸はエステートが管理を続けている。
家族関係
父ジョセフから少年時代に児童虐待を受けていたことを明かしている。歌とダンスのレッスンは非常に厳しく、ベルトなどあるもの何でも使って叩かれたという。その様子を見た母キャサリンは「やめて!死んじゃうわ!殺しちゃうわ!」と泣き叫んでいたという。また虐待は身体のみに留まらず、「デカ鼻」などと容姿も揶揄され続けたという。
1人目の妻リサ・マリーとは2年足らずで離婚している。離婚理由についてリサ・マリーは「普通の結婚生活だった。セックスもしていた。しかし彼がある時点で、彼の血を吸い取るような人たちとドラッグか、または彼らか私かを選ばなくてはいけなくなり、彼は、私を遠ざけることを選んだ」と語っている。
2人目の妻、デビー・ロウは「セックスはまったくなかった」と証言している。異人種間で生まれた子供にもネグロイド的な容姿の特徴が一部は見られるはずだが、マイケルの子はコーカソイド的な特徴ばかりが目立っている点に疑問を感じる人は少なくない。
一方で、子どもに対してはプライバシーを守ることに気を遣っていた。3人の子どもの中でもパリスは特に父を慕っており、寝室の壁をマイケルのポスターで覆っているという。
交友関係
マイケルは多くの著名人との親交で知られる。
南アフリカ大統領のネルソン・マンデラとは家族のような仲だった。マイケルの訃報を聞いた彼は追悼のコメントを残している。
ダイアナ・ロスには中学生時代に告白したが振られている。そのときマイケルは「もう一生結婚なんてしない」とまで言ったが、結局は2度結婚している。失恋後も友人関係は保たれており、ダイアナはマイケルの遺児の後見人にも指名されている、とゴシップ・サイトは報じている。
1980年代初頭までは、イギリスの音楽家であるポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーとの親交もあった。アルバム『スリラー』の制作に合わせ、両者とのデュエット曲の制作も行われた。
女優のエリザベス・テイラーとは親友であった。
慈善活動
マイケルは活発な慈善活動家としても知られていた。
幼い頃から両親の許可が降りればお小遣いでキャンディを大量に買い占め近所の子どもたちに配る、母キャサリンのささやかなアクセサリーまでも学校の先生にプレゼントしてしまうなど、その前触れは見られたという。またホームレスの人を見ると放っておけず、車を停めポケットからありったけのお金を提供し、励ましていたという。
疑惑・論争
マイケルを取り巻く噂話、訴訟、論争の数は計り知れないが、中には真実と完全に相反するものや事実関係を裏付ける十分な証拠が存在しないものも多い。
性的虐待疑惑と裁判
マイケルは少年に対する性的虐待をしたとして2度の疑惑をかけられ、それぞれ民事裁判と刑事裁判が行われたが、有罪判決を受けたことは一度もない。この一連の疑惑についてFBIも10年以上に渡る捜査と監視を行ったが、FBIはマイケルが有罪であるという証拠を一切発見できず、無実だったと結論づけている。
隠し子疑惑
2014年3月、ミキ・ハワードの息子で歌手のブラントン・ハワードがDNA型鑑定を受けた結果、99.9パーセントの確率でマイケルの子供であると判明したという報道がなされた。ブラントンはこの件について、DNA鑑定はマイケル・ジャクソンが付けていた歯科用器具をオークションで手に入れたビバリーヒルズの歯科医が器具からマイケルのDNAを採取し、勝手におこなったという。この報道についてブランドンはビデオ・コメントを発表し、「僕はマイケル・ジャクソンとのDNA鑑定なんて認めた覚えはない」「テレビのドキュメンタリーの中で僕のDNAのサンプルを渡すことに同意したんだ。こんなふうに使われるなんて思いもよらなかった」、「これまで一度も自分がマイケル・ジャクソンの息子であると主張したことはないし、遺産を狙う意思も一切ない」と疑惑を断固否定。ブランドンの実父であるオージー・ジョンソンも「ブランドンは俺の息子である」、「DNA鑑定を受けてもかまわない」と、メディアに話した。またブラントンが産まれた時期などから、マイケルのヒット曲「ビリー・ジーン」はミキ・ハワードのことを歌ったものではないかという噂もあったが、ミキ・ハワードはこれを否定している。またマイケル本人も生前「ビリー・ジーンは実在する誰のことでもない」としている。なお、ミキ・ハワードとマイケルが交際しているとの報道は、過去にされていない。その後、鑑定結果用紙が偽物であったと一部で報じられるなど、鑑定の信ぴょう性自体に疑問が出ている。
ソニーとの確執
1990年代後半から晩年にかけて、マイケルとソニー・ミュージックエンタテインメントの関係は険悪だった。「予算1,000億円規模で7枚のスタジオ盤+ベスト盤」を条件にソニーと契約していたマイケルは、2001年のアルバム『インヴィンシブル』の売上不振でソニーに多額の負債を負っていたことや、彼が84年に購入したビートルズの版権をソニーが押さえていたこともあって、ソニーを離れることができなかったことは背景として存在する。
2002年7月、マイケルは公の場で「トミー・モトーラは悪魔で人種差別主義者であり、彼の同僚のアーヴ・ゴッテイに不利益な扱いをした」と発言。それに対しソニー側は、マイケルのプロモーションに消費した2,500万ドルが損害となったと反論した。
さらに、ATV版権カタログを巡ってソニー幹部と財政相談役との争いも発生した。ソニーと対立するマイケルがソニーから離れた場合に大きな損失が発生することを踏まえたものだが、元マイケルの広報担当アン・マリー・カイトによれば、彼ら側近はマイケルから膨大な額の金を着服して陰謀を企てていたという。このことはマイケル・ジャクソン裁判でも問題になり、弁護人トーマス・メゼロウはマイケルのことを「名声を失墜させようとした側近たちの被害者だ」と述べた。裁判の行方によってはソニー側にそのビートルズの版権の半分を売り渡すのではないかというメディアの観測もあったが、マイケル側はそれは「新たな融資が組みあがったこと」であると否定している。
2006年4月、ソニーはマイケルの借入金2億7,000万ドルに対する債務保証の見返りとして、ソニーATVミュージックパブリッシングの経営権とマイケルが保有する同社株の50パーセント(発行済株式の25パーセント)を2億5,000万ドルで購入する権利を獲得している。
またマイケルの広報担当だったレイモン・ベインは、2009年にマイケルを相手どって約43億円の訴訟を起こしている。
容姿の変化
度重なる整形手術や著しい肌の色の変化は、度々マスメディアの注目を集め、議論や憶測を呼んでいた。
初めて整形手術を施したのは『オフ・ザ・ウォール』から『スリラー』の頃で、1979年にステージで負った鼻の大怪我を早急に治癒する目的があった。1984年に負った頭部の大火傷で顔面の骨格や皮膚に後遺症が残ったことや、もともと幼い頃に家族から「デカ鼻」とからかわれ容姿にコンプレックスを抱いていたこともあって、その後も晩年に至るまで鼻と顎を中心に整形手術を繰り返したとみられる。1988年の自伝『ムーンウォーク』で自身が語ったところによれば、当時の時点で彼が施した整形手術の回数は「鼻が2回、顎が1回」であるという。
一方で、肌の色の変化は尋常性白斑という疾患に由来するもので、死後の検死報告で公式に明らかにされた。この持病を初めて自身が告白した1993年の「オプラ・ウィンフリー・ショー」で彼が語ったところによれば、病気が進行し始めたのは『オフ・ザ・ウォール』から『スリラー』の頃で、体中の皮膚の色が斑状に変化していったという。1990年代以降に病気は急激に進行し、外出中は紫外線を断ち切るために常に大きな帽子、傘、サングラス、マスクの着用を余儀なくされていた。長年彼のメイクアップを担当していたカレン・フェイは「彼も周りもずっと病気のことを隠そうとしていた。最初は白い部分を茶色のファンデーションで隠していたが、白斑が全身に広がると白くメイクするように切り替えるしかなかった」と話している。また、1984年に負った頭部の大火傷も病気の進行を早めたと言われている。
偏向報道
マイケルがスターダムに上り詰めた1980年代中盤から晩年に至るまで、彼の私生活や容姿はタブロイド紙を中心にマスメディアの格好のネタにされた。「声を高くするために睾丸を摘出している」「マイケルには隠し子がいる」など、大きく矛盾し信憑性の低い噂話も大量に流れた。
こうした噂話の広まりを助長するメディアの姿勢は一部の著名人から批判されている。
- マドンナ(2009年VMAアワードの追悼スピーチにて)
「 | 魔女狩りが始まったのです。マイケルについてのネガティブな噂が次から次に出てきました。彼の痛みを感じました。街を歩いていて世界中が敵になったように感じるのがどういうことなのか、私は知っています。リンチを行う群集の叫び声が大きすぎるために自分の声は届かないと悟り、どうすることも、自己防衛すらもできないと感じるのがどういうことなのか、私は知っています。彼が家族やキャリアの再建に勤しむ中、世間は批判に徹しました | 」 |
- アフロダイテ・ジョーンズ(2005年のマイケル・ジャクソン裁判に関する報道について)
「 | 当時のメディアはマイケルを標的にし彼の破滅を企てていた。メディア関係者の中には、検察側の主張に合わせて報道を歪めるような不公平な偏向報道をしていた者もいた。自らも以前はTV視聴者にマイケルが有罪と思い込ませるようなコメントをしていた。2200ものメディア関係者が裁判を取材したが、自らの偏向報道を認めた者はほんの少ししかいない(自著『マイケル・ジャクソン裁判 あなたは彼を裁けますか?』) | 」 |
- トーマス・メゼロウ弁護士(2005年のマイケル・ジャクソン裁判に関する報道について)
「 | メディアはマイケルが有罪になることを望んでいた。有罪になり刑務所に入りでもすれば、世界的に有名なスターの栄光と堕落ということで映画・TV・書籍などのあらゆる媒体でネタにでき、そうなれば何十億ドルにもなる莫大な収益が見込めたからだ(同書) | 」 |
- チャールズ・トムソン(2005年のマイケル・ジャクソン裁判に関する報道について)
「 | 裁判記録を見てみると、裁判の実態は、検察側の証人や証言に信憑性がないことが弁護側の反対尋問によって次々暴かれていったものだったことがわかるのだが、そういった検察側に壊滅的なダメージを与えた反対尋問は無視され、報道されないという傾向があった。逆に、マイケルが有罪であると視聴者にほのめかすような報道や中傷コメントは常軌を逸するほど多かった。裁判では信憑性がないとされた検察側の主張が、あたかも真実であるかのように報道され続けた。無罪評決が下された後も、メディアは反省や謝罪をするどころか裁判の実態を検証し正しく伝え直す報道もせず、評決前にマイケルが有罪になるとコメントしていたニュースアンカーやコメンテーターたちは無罪評決が出たことに対し『恥をかかされた』と怒り、マイケルを中傷し続けた。メディアは視聴者を騙し、マイケルに甚大なダメージを与えた。この裁判報道はジャーナリズム史上最も恥ずべき出来事の一つである | 」 |
遺品
2010年10月、マイケルとマイケル・ジョーダンが「ジャム」のショート・フィルムで使用した、2人のサインが入りバスケットボールが競売にかけられた。落札金額は24万5,000ドル。この他にも、マイケルがアルバム『ヒストリー』のティーザー撮影に使用したライトストーン手袋も出品され、落札金額は18万ドルだった。
12月、パリで生前、未公開だった4枚のポートレートが競売にかけられた。これらポートレートは1999年にフランスの写真家アルノ・バニが撮影したものでマイケルがアルバム『インヴィンシブル』のために依頼したものであったが、レコード会社の意向で採用されなかった。落札金額は「古代エジプトのファラオのようなポーズの写真」が2万6,000ユーロ、「マイケルの左目の周りに青い光沢のある素材を施した写真」が2万5,000ユーロ、「黒いシャツで顔の下半分を覆った写真」が2万2,000ユーロ、「赤いカーテンの前に立っている写真」が9,000ユーロだった。
また同月の別のオークションでは『バッド・ワールド・ツアー』で使用されたライトストーン入りグローブと白い中折れ帽子が出品された。落札金額はグローブが33万ドル、帽子が7万2,000ドルだった。
2011年には「スリラー」のミュージック・ビデオで着用していたジャケット(スリラー・ジャケット)が180万ドルで落札された。このオークションには他にも多数マイケルのゆかりの品々が出品され、ゴールド・ディスクは1万5,000ドル、80年代にマイケルが着用していたサングラスが6万ドル、サイン入りの黒のハットが3万3,750ドル、MTVアワードでマイケルが受け取ったトロフィーが5万4,400ドル、マイケルが描いた落書きが7,680ドルで落札された。
2012年、ステージ衣装が一斉にオークションにかけられる。うち55着をレディー・ガガが落札。ガガはマイケルの遺品をコレクションしており、それらを展示する博物館の建設も計画しているという。
なお、マイケルはオークションで1999年に長年の夢であった『風と共に去りぬ』のオスカー像を150万ドルで落札した。しかし死後、行方不明になっていると遺産管理者が公表。像の転売禁止が制定されたのは1950年以降であり、同映画の像の行方にアカデミーは関わっていない。像は管理者によって行方が隠されているか、盗まれたのだろうと推測されている。
脚注
注釈
日本円換算
外部リンク
- 公式ウェブサイト(英語)
- SonyMusic Site(日本語)
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