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鼻削ぎ
鼻削ぎ(劓、はなそぎ)・鼻切り(劓、はなきり)は、人間の鼻を削ぐ行為を指す。目的としては、刑罰として科す場合と、戦において討ち取った首の代わりとして切り取る場合の二通りがある。
刑罰
中国
古来中国では劓(鼻切り)は大辟(死罪)・刵(耳きり)・椓(宮刑)・黥(墨刑=入墨刑)と共に主要な刑罰(五刑)の一つとされていた。秦の始皇帝がこの刑を好み、各国の捕虜に対し、この刑を行ったために鼻の有る者のほうが珍しいとされる町が存在したほどであると始皇帝の子の教育係であった趙高が伝えたとされる。
すでにはなそぎされたものに関しては、左趾を斬り、左趾が斬られている場合は、右趾を斬り、すでに両趾が斬られている場合は、腐刑=宮刑とした。
秦を滅ぼした漢の時代になると、宮刑を除く肉刑は全て廃止された(前同 鶴間 pp.176 - 177)。しかし、漢民族以外の周辺国家では、その後もこの風習が残されていた。唐の時代、チベット族の国家・吐蕃には数々の肉刑が存在し、女真族の金では死刑に至らない重罪人には鼻切りや耳切りを科した。
さらにモンゴル族は、元を興して中国全土を支配下に置くや、肉刑を復活。強盗は死刑、牛馬の窃盗は鼻きりと定めた。ロバを盗んだものは、初犯は首への刺青、再犯は鼻そぎ。豚や羊を盗んだ者は、初犯は首に刺青、再犯は顔に刺青、3犯は鼻そぎ、4回目で死刑とされた。 明王朝初期の靖難の役の折、南京を攻略した燕王朱棣(後の永楽帝)は、建文帝の忠臣たちを鼻そぎで辱めた後、死刑に処した。
ちなみに、亡夫への節操を自ら守るために自分の鼻を切り落とす女性の例が存在している。漢の大梁に才色兼備の女性がいたが、若くして夫を失った。周囲の資産家たちはみな妻に迎えたいと画策したが、彼女は一切拒絶した。噂を聞きつけた梁王が妃に迎えようとしたところ、彼女は自ら鼻をそぎ落として言う。「本来ならば死をもって操を尽くすべきでありますが、幼子を残して逝くわけにはまいりません。私はこのような顔になり果ててしまいました。どうかお諦めください」。使者から話を聞いた梁王は感じ入り、その節操を表彰した。
※史料によっては刵(耳切り)を剕(足切り)とする物がある。
日本
日本へは中国から律令制と一緒に伝わったとされ、平安時代頃から劓刑に関する記述が見られるようになる。主に窃盗や賭博博打に対する刑罰として科していたようである。
平安時代において、報復的に鼻切りと耳切りをされた人物例としては、藤原子高(藤原純友と藤原文元による襲撃)がいる。
鎌倉時代後期の紀伊国阿弖河荘の百姓による訴状には、地頭湯浅宗親によって「ミミヲキリ、ハナヲソギ」と脅された旨が書かれている。勝俣鎮夫によれば、この耳切と鼻そぎとは、「異形の罰」、すなわち体の一部分を切ることによって、人を人でなくする罰としての意味合いがあるとする。
安土桃山時代には豊臣秀吉がバテレン追放令を無視してキリスト教を布教していた伴天連や吉利支丹に対し、処刑の前に耳鼻を削いで京都市中を引き回そうとしていた例(二十六聖人の殉教)が残っている。ただし、実際にはこの刑を命じられていた石田三成により減刑され、耳たぶだけ切り落とされたとされている。
江戸時代に入ると劓(鼻切り)は追放刑の付加刑として位置づけられるようになった。極初期の刑例としては、日経(耳鼻削ぎ)が挙げられる。しかし寛永年間に入墨刑に置き換えられ、劓(鼻切り)は、一部地方を除き廃止された。なお享保期に入ると抜荷に対する罰則として限定的に復活し、明治に至った。
北海道のアイヌ民族は、姦通を犯した者に鼻切りとアキレス腱切断の刑を科した。
アフガニスタン
アフガニスタンのタリバン政権はイスラム教の戒律にのっとり、結婚先から逃げた妻にはなそぎの刑を科していた。これで鼻をそぎおとされた女性は世界各地で報道され、女性の人権問題として注目されている。
ネイティブアメリカン
ルース・ベネディクトの『文化の型』によれば、平原地方では、妻の姦通に対する報復行為は、妻の鼻の肉を切り落とすことであり、これは西南部地方においてもアパッチ族のようなプエブロ以外の諸民族で行われたと記す。ただしズニ族に関しては、妻の不貞に対しても全く厳しい取り扱いは行わなかったとする。
戦功の証明品として
日本
日本では戦において討ち取った敵に劓(鼻きり)を行い、切り取った鼻を戦功の証明として用いることがある。鼻級を取られた武将の例としては、斎藤道三(1556年没)がいる。切り取った鼻はほとんどの場合、軍目付に提出され、戦後大将が行う首実検によって討ち取った者の武功が判定された。文禄・慶長の役の際に行なわれたため、朝鮮から憎悪の対象となった。役の終わった後、日本に供養のため鼻とあわせ耳塚が作られた。江戸期の島原の乱でも行われたが、農民一揆であったために恩賞は出なかった。これは最後の合戦ということもあって、功を焦っての行為とみられ、一揆鎮圧では鼻級・首級は認められなかった。
正確には、鼻だけを切り落とすのではなく、性別がわかるようにヒゲが生えている鼻の下から唇までを切った(『雑兵物語』『訓閲集』)。『雑兵物語』には、戦場で主人の鉄砲をもっていた草履取りが、主人の危機を鉄砲で助け、鼻級を主人にもってきて、手柄をとったと主張するも、ヒゲが確認できる唇がなければ、性別がわからないからという理由で、戦功はないといわれた話が記述されている。また上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた兵書)巻六「士鑑・軍役」の項にも、「いそがしくて首をもたれざる時、鼻をかくもの」とし、童・女と区別がつくよう(性別がわかるよう)にヒゲが生えている(鼻下から)唇までを切るようにと、同様のことが記述されている。
中世前半では、合戦中であっても討ち取った首級を一度主君の元に持っていき、戦功と褒美を求めていたが(持ち運べる首の限度が1つから2つであったことは注文の記述からも判明している)、川越夜戦(1546年)では、「首は取らず、切り捨てよ」と命じる武将が現れ(『北条五代記』)、敵の重心(軍事用語・敵の中枢拠点)=大将の首を直接狙う戦法になり、織田信長の桶狭間の戦い(1560年)においても同様に、首は取らず切り捨てよと命じる例がみられるようになる。戦国時代になり、戦法の変化と共に重量のある首級を取る余裕がなくなったことを意味し、このことは前述の『訓閲集』の「忙しくて首を持たれざる時、鼻をかくもの」という記述とも合致する。
例えば、『小田原北条記』巻三「氏綱、首実検」の記述として、天文7年(1538年)の国府台合戦の戦後、「ある者は鼻と首を持ってきて、首2つ」と報告し、「ある者は、鼻2つを取ってきて、首級と書けと主張」する者が多かったため、死んで野ざらしになった味方の首から鼻を削いで、鼻級としたのではないか(偽首)と疑う話があり、それを別の武士が証言して、首級として認めさせた内容がある。その証言によると、その武士が首級を取るも重傷を負って身動きが取れなくなったため、鼻を削いで帰陣するように薦め、自分が証言者となることを約束をしたとある。戦中に重傷を負って首を運べなくなったため、仕方なく、鼻を削ぎ取った事例であり、証言者を確保し、その後、首と鼻を照合させた。